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礼拝メッセージより
「あなたがたが」 2012年1月8日
聖書:ルカによる福音書 9章10-17節
派遣
9章の最初の所を見ると、イエスが12人の弟子たちを村々へ派遣している。至る所で福音を告げ知らせ、病気をいやした、とルカは書いている。
その派遣から帰ってきたのが今日の所だ。イエスは弟子たちを連れて、自分たちだけでベトサイダに退いた。
ところが群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。この群衆はどこから来たのだろうか。弟子たちが福音を告げ知らせ、病気をいやしたという村々から来たのだろうか。
イエスはこの人びとを迎え入れ、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた、と言う。なんだかイエスが病院で患者を診ているようなイメージがする。
奇跡
日が傾きかけたので、弟子たちがイエスに、群衆を解散させてください、そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです、と言った。ところがイエスはあなたがたが彼らに食べ物を与えなさい、と言った。後で書いているようにここには男だけで5千人、女性も子どもも合わせると1万人位の人がいたということになっている。とてもじゃないけれど弟子たちがどうにかできるような人数ではなかった。なのにイエスは、あなたがたが食べ物を与えなさい、なんてことを言ったわけだ。とんでもないことだ、と思う
弟子たちは、わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、と答えた。これしかないんですよ、これじゃどうにもならんでしょう、ということだったのだろう。
イエスは、人々を50人位ずつの組にして座らせるように命じて、この五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡した。
祈ってパンを裂くというのは通常の食事でしていたことだそうだ。そうして弟子たちに配らせた、と16節に書いてある。そして17節には、すべての人が食べて満腹した、と書かれている。16節と17節の間には結構な時間が経っていて、その間に何があったのかよくは分からない。裂いているうちに奇跡的にどんどん増えたのか、それとも弟子たちが配っているのを見て、群衆たちもそれぞれの自分の持っていたのものを分け合ったのか。
全ての人が食べて満腹になり、残ったパン屑を集めると十二籠もあったというのだ。
昔見た映画では、イエスが祈っていると魚がどんどん沸き上がるように増えていったなんてのがあったけれど、実際にはそういう奇跡的なことではなく、やっぱりみんなが持っている物を分け合ったということなんじゃないかと思う。
福音書も、弟子たちはパン五つと魚二匹しか持っていなくて、イエスがそれを裂いて弟子たちに配らせて、みんなが満腹して、残ったパン屑が12籠だった、ということしか書いてない。その間に何がどうなったのか、想像するしかない。
一歩
それよりも、イエスがどうして弟子たちに、あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい、なんて言ったのかということの方が不思議な気がする。
そんなことできるわけないでしょう、と言う弟子たちに対して、イエスは自分自身がパンと魚を奇跡的に増やして、俺はこんなすごいこともできるんだ、知らなかったのかと言いたかったのだろうか。お前達には俺を信じる信仰がないのかと責めたかったのだろうか。
ドイツ人宣教師、ストローム、ミッドナイト・ミッションから派遣され、日本の不幸な女性を助けようとしたが、適切な仕事がなく、釜が崎に移り住んで伝道と奉仕をした。帰国するまで20年間釜が崎の労働者や、アルコール依存症の人々のために働いた。その人が『希望の町』という本で、その働きをまとめているそうだ。その中の一部。
「今考えると大変でしたが、初めからそんなに大変だとは思いませんでした。一歩やると次の一歩が出来るという感じでした。一歩やって足場を作り、その第一歩の足場から第二歩、第三歩のために力が出てくるんですねえ。日本人はなかなかそれが理解できないみたいですね。二歩や三歩じゃなくて、初めから十歩を考えます。その十歩が出来そうもないから、一歩もやらない、そのやり方は私の信仰と違うのです。
ある所に立って考え、計算して、できるかできないか考えるやり方も必要かもしれません。けれど信仰の生活というのは『少なくとも第一歩をやったらいいじゃないか、第一歩が出来たら、その足場からまた次の第一歩のために力も知恵も可能性も出てくる』と考える行き方です。私はそう理解しています。』
まず第一歩、それはいますぐに出来ること。一歩だけでは届かないと思うからその一歩もなかなか踏み出さないことが多い。信仰とはその一歩を踏み出すこと、それは自分にとっては何でもない、ごく当たり前に自分にできることを始めることなのかもしれない。そしてその一歩一歩が、思いがけない出来事となっていくということかもしれない。
これだけ
なんて偉そうなことを言いつつ、僕は何か責任を持たされることが嫌いだ。何か役を任されることがとても嫌いだ。だから何も任されないようにと願っている。
合唱団の演奏会でも、断り切れないでということが多いけれど、たまには何かを任されることがある。上手くできなかったらどうしようとか、いろんな余計な心配をするけれど、でも演奏会が終わった時には、達成感がある。何も役を持たないときよりも、断然うれしい気持になっている。
パン五つと魚二匹しかありません、と弟子たちは答えた。これしかありません。こんなもの何の役に立つのですか、と言った。
私たちも、私はこんなことしかできません、こんなことが何の役にたつのでしょうかと思う。でもイエスはそれを差し出しなさいと言われているのかもしれない。
こんなものしか持っていない、こんなことしかできない、と私たちは思うけれど、イエスはそれをこんなものだとか、こんなことだとは言っていないようだ。あなたはこんなものと思っているかもしれないが、私はそうは思っていない、イエスはそう言っているのかもしれない。
それを使ってあなたがやりなさい、それを持っているあなたがやりなさい、イエスは私たちにそう言われているのではないか。そして、こんなものがと思うそのものを用いることの喜びを私たちにも経験してほしいと思っているのではないか。
だから、あなたがたがやりなさい、あなたがやりなさい、と言われているのだろう。