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礼拝メッセージより
「イエスを捜せ」 2012年1月1日
聖書:ルカによる福音書 2章41-52節
過越
律法の規定によってエルサレム近郊32q以内に住むすべての成人男子は、過越の祭に参加しなければならなかったそうだ。イエスの住むナザレからエルサレムまではもっと遠いようだけれど、イエスの両親は過越歳には毎年エルサレムへ旅をした、と書かれている。
イエスが12歳になったときも、両親はエルサレムへ上ったが、この時はイエスも同行したようだ。注解書によると、ユダヤの男子は12歳で成人となって律法を守る義務が生じるそうで、そういうこうとでエルサレムに行ったのかもしれない。と思うと13歳で成人になると書いてあるものもあり、どっちがどっちかよくわからない。成人になったから同行したのか、次の年から成人になるから行ったのかのどちらかなのだろう。
そして過越の祭が終わり、両親はイエスをエルサレムに残して帰路についたけれども、そのことに一日気が付かなかったというのだ。ある注解書によると、歩くのが遅い女性の旅行団は男性よりも一足先に出発し、男性は後から出発して夜営地点で合流するというような習わしがあったそうだ。親類や知人や近所の人たちと一緒に大勢で旅をしていたのだろう。そして女性のグループと男性のグループに分かれて歩いて旅をしていたようだ。マリアはイエスがヨセフと一緒だと思っていて、ヨセフはマリアと一緒だと思っていて、それで夜合流して初めてイエスがいないことに気付いて、あわててエルサレムに引き返したということらしい。
どうして
両親は懸命にイエスを捜したようだが、やっと見つけたイエスは、神殿の境内で学者たちの話を聞いたり質問したりしていた。過越祭の時には神殿の庭で公開討論会が開かれるのが習わしで、そこで学者たちに質問するということはそれほど特別なことではなかったそうだ。
やっとイエスを見つけたマリアは、なぜこんなことをしたのか、お父さんもわたしも心配して捜してたのに、と言った。怒りたくもなるわな。
しかしイエスは、どうしてわたしを捜したのか、わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか、と答えたと言うのだ。この自分の父の家というところは、家という言葉はなくて、わたしの父のことの中に、とか父のものの中に、という言葉だそうだ。私が父のところに、父のもとにいるのは当たり前だということを言っているようだ。つまり神を父だと言っているということになる。
後々イエスは自分で祈るときには、父よと祈り、弟子たちにも父よと祈れと言われていた。イエスにとって神は父であるということをこの時から語っていたということなんだろう。
心に納めて
でもちょっとこの言い方はないよなと思う。やっと探し当てた子どもから、どうして捜したのかなんて言われたらたまらないなと思う。しかも神のことを父だなんて言い出したとなると、ちょっとおかしくなったんんじゃないかと思っても不思議じゃない気がする。
ルカも、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかったと書いている。分からないよなと思う。分からなかったけれどマリアはこれらのことをすべて心に納めていたとも書かれている。
2章19節を見ると、マリアはイエスが誕生し羊飼いたちがやってきたときにも、これらの出来事をすべて心に納めて思いめぐらしていたと書かれている。すべて、というのはルカがよく使う言葉で、すこし誇張もあると思うけれども、それでもマリアは自分にはよくわからないことも、心に納めていったということなんだろうと思う。
マリアはこれらのことをいつ理解したんだろうか。本当に理解できたんだろうか。
私たちもよく分からない出来事を経験しながら生きている。どうしてこんなに苦しいことばかり起こるのか、どうして神は祈りを叶えてくれないのか、これはどういう意味があるのか、そう思うこともしばしばだ。私たちに神の意志が全部分かることはないだろうし、分からないことだらけというのが実際のところだ。
分からなくてもいいのかもしれないと思う。というか無理に分かる必要はないのだろうと思う。これは試練です、これも神の計画です、なんて分からないよ本当の所は。それを無理矢理納得するような答を出す必要もないのではないかと思う。いずれは分かるときがくるかもしれないし、分かるときに分かればいいのではないかと思う。分かることも分からないことも、心に納めていけばいいのではないかと思う。
心に納める余裕さえないときもあるかもしれない。あまりに苦しい時、何もかもうまくいかない時、こんな自分は誰も振り向いてくれるはずもないと思う。誰からも見捨てられて独りぼっちになったように思う。
でもイエスはいつもそんな人と共にいた。イエスはそんな人を捜し歩いていた。だから私たちがぼろぼろになる、そんな時こそイエスを捜そう。独りぼっちになった私たちと共にいるはずだ。私たちのぼろぼろの心の中に、イエスはいてくれているはずだ。
だからこそ、独りぼっちでどうしようもなくなった時、こんな自分では駄目なんだと自暴自棄になるとき、そんな時こそ、イエスを捜していこう。イエスの声を聞いていこう。
イエスは、私は世の終わりまであなたがたと共にいると言われている。「どうして捜したのか、いつもあなたと共にいるのは当たり前だということを忘れたのか。」イエス、イエスを捜し回る私たちにそう言ってくれるのではないか。