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礼拝メッセージより
「見捨てない」 2011年12月25日
聖書:ルカによる福音書 2章1-20節
飼い葉桶
イエスは生まれてすぐに飼い葉桶に寝かされていた。つまり家畜の餌の入れ物の中に寝かされていた。そこがどんな場所だったのかはっきりとはしないけれども、飼い葉桶があることから家畜小屋ではないかと思われる。とても清潔とはいえないところに生まれた。またそこは家畜によって踏まれるか、あるいは蹴られるかする危険があるところだった。
母マリアと許婚であるヨセフは住民登録をするためにベツレヘムという町へ行かねばならなかった。彼らの住んでいたナザレからベツレヘムまでは120qほどもあるそうだ。もうじき子どもが産まれるというのに、電車も自動車もない時代に120kmほども離れた町まで出かけねばならなかった。
しかもベツレヘムに着いてからも7節にあるように、宿屋には彼らの泊まる場所がなく、仕方なく家畜小屋に泊まっていたためこんなことになってしまったようだ。旅先での大変な不安な出産だった。こんなひどい出産聞いたことない。
羊飼い
イエスの誕生の知らせを最初に聞かされたのは羊飼いたちであった。羊飼いという仕事は当時はまっとうな仕事とはみなされていなかったそうだ。まともな人間と見られていなかったそうだ。羊飼いは人口調査の対象にもならず、税金を支払う能力もないと考えられ、一人の人として認められていなかったそうだ。ほとんど社会からのけ者にされている者たちであった。そんな社会からつまはじきされている者のところへキリストの誕生は真っ先に知らされた。
天使が突然現れた時には、羊飼いたちは非常に恐れたとあるが、それでも彼らは天使の言葉を聞いた後にイエスに会いに出かけていった。そして見事に探し当てた。どれくらい探したのか、家畜小屋をしらみつぶしに探したのだろうか。そこで発見したイエスは天使の言うとおり、飼い葉桶に寝ている一人の乳飲み子であった。無力な乳飲み子であった。ただの赤ん坊であった。
羊飼いたちは見聞きしたことが天使の言う通りだったので神をあがめ、讃美しながら帰っていった。彼らが神をあがめ讃美したのは、この赤ん坊が光り輝くような子どもだったからでもないだろう、この子はごく普通の小さな何もできない赤ん坊だったはずだ。しかしそれが神の知らせてくれたとおりだったので神をあがめ讃美しながら帰っていった。
出会い
しかし羊飼いたちは救い主に、キリストに会っただけ、見ただけで満足して帰ってしまったことがなんだか不思議だなと思う。
私たちは神に会う、キリストに会うとなるといろんなことをお願いしたくあるんじゃないかと想像する。大きなことから、小さなことまで。これして下さい、あれして下さいとお願いしそうである。
しかし羊飼いたちは、乳飲み子から何かをしてもらおうとはしなかった。救い主に接して、彼らは自分の願い事をかなえてもらうように頼みもしなかった。
それだけで彼らは、神をあがめ、讃美しながら帰っていった。彼らは願い事をしに行ったのではなく、会いに行っただけなのだけれど、もうそれだけで十分といった感じだ。それ以上のものは必要ないといったようなことかもしれない。それに比べればなにかをしてもらうことなど、たいしたことではないかのようだ。
というか、彼らにとっては救い主を見ることこそがなによりの願いだったのだろう。彼らにとってはそれこそが一番の喜びだったのだ。自分たちの救い主がキリストが生まれた。それでもう彼らは喜びいっぱいだったのだろう。それを確かめただけで彼らには十分嬉しかったようだ。
何かをしてもらうこと、自分の願いを叶えてもらうことよりも、キリストに会うこと、キリストを見ること、それこそが彼らにとっては喜びだったようだ。
注目
私たちは弱い存在である。何か少しでも順調に行かなくなったらうろたえてしまう。失敗し挫折し、その度に落ち込み、こんな自分では駄目だと自分を責める。あるいは思いもよらない苦しみに遭遇し、生きている意味も価値もないように思う。
失敗も挫折もないところに、或いは災難のないところに私たちの幸せがあるように考える。しかし、どうやらそれを避けて通るわけにはいかないようだ。思うようにいかない事に私たちの人生は振り回される。
しかし、その私たちの人生の中に神が介入してきた。それがクリスマスではないか。
いかんともしがたい、なかなか思うようにならない、苦しい事の多い人生、なんだかむなしく感じる人生に、神は上から切り込んできたのだ。イエスは人生の荒波の中に生まれてきた。
どうしてこんな苦しみにあわなければいけないのか、神はどうしてこの苦しみから助け出ししてくれないのか、と思う。
しかしイエスはその苦しみの中に、苦しみもがく私たちの所に生まれてきた。そして十字架へ向かう命を生きられた。それは苦しみを持って生きる私たちと寄り添うためだったのだろう。
死も苦難も失敗も挫折もある、そんな私たちのこの人生に、どこまでも寄り添う、私たちの悲しみや苦しみに寄り添う、そのためにイエスは生まれたのだ。
自分の苦しみや悲しみを分かってくれる方がいることを知ること、それが私たちにとっての救いなのだろう。神はそういう仕方で私たちを愛しているのだろう。
社会的には疎外されのけ者にされている羊飼いたちは喜び、讃美しながら帰っていったのだ。イエス・キリストに会うことで彼らの状況が変わったわけではない。何も変わっていない。しかしその中で彼らは喜ぶを発見したのだ。
だから羊飼いたちはイエスに会ってもことさらに何かを求めることもなかったのだろう。自分の人生に神が関わっておられること、自分のところにキリストが来てくれたこと、ひとりぼっちではないことが知ったこと、それが彼らにとってはなによりの喜びだったのだろう。
除け者
生まれたばかりの赤ん坊は飼い葉桶に寝かされていたという。そしてそれは宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからだという。もうじき赤ん坊が生まれそうだという産婦を泊める場所がどこにもなかったというのだ。イエスは生まれる時からのけ者にされていたわけだ。
人の優しさが一番必要な時にやさしくされない、そんなところにイエスは生まれた。しょうがないよ、宿屋はいっぱいなんだから、と人が邪険にしてのけ者にして、追い出している、そんなところにイエスは生まれた。人から、社会からのけ者にされ冷たくあしらわれるところにイエスは生まれた。だからこそ、社会からつまはじきされている羊飼いたちに最初のクリスマスの知らせが届いたのだろう。
社会が見捨てたところにイエスは生まれた。誰からも大事にされない、誰もが認めないところにイエスは生まれた。私たちは社会に適応できない自分をダメだと思っている。社会に認められないとダメだと思っている。社会が認めるものを持っていない自分のことをダメだと思っている。またいつ社会からつまはじきされやしないか、のけ者にされやしないかと心配している。
しかしイエスはそんな誰からも認められず、自分でも認められないと思っている、その人の隣に生まれたのだ。こんな事ではダメだ、社会に認められないと思っているそんな人の隣にイエスはおられるのだ。誰からも見放されてしまってひとりぼっちになってしまっている人に会うためにイエスは生まれたのだ。そしてその人といつも共にいること、その人をいつも愛していることを知らせるために生まれたのだ。
『誰からも認められなくても、そして自分でも認められなくても、私は認める、私は見捨てない、私はずっと共にいる』、イエスは私たちに対してきっとそう語りかけている。