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礼拝メッセージより
「イエスの目」 2011年12月4日
聖書:ルカによる福音書 22章54-62節
牢までも
自分の師と仰ぐ先生が逮捕されてしまった。極悪人として捕まってしまった。ついに最悪のシナリオが実行されようとしている。十字架が目前に迫っている。しかしそのことを弟子達はまだよく分かっていないようだ。
31節からのところを見ると、イエスはペトロに対して、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言っている。これからあなたの身に苦しいことが起こる、しかしあなたのために信仰がなくならないように祈ったとイエスは言うのだ。
それに対してペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と答えた。この時は本当に牢の中までもついていくんだという気持ちがあったのだろうと思う。少々のことが起こってもイエスについていく覚悟もあったのだろう。自分ならば大丈夫、祈ってもらうこともない、どこまでもついていくのだ、そんなことを祈ってもらわなくても、という思いがあったのだろう。信仰がなくならないように祈ってもらうようなやわな人間ではない、という気持ちがあるように聞こえる。しかし覚悟していた以上のとんでもない事態が起こっていった。
熱血
イエスは、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言う。最初はシモンと実名で呼んでいたが、ここではペトロとニックネームで呼ぶ。ペトロとは岩というような意味らしい。岩のような堅い信念を持っていたからか、頑固だったからか、岩のようながっしりした体だったのだろうか。はっきりとはしないけれども、一緒に牢に入っても死んでもいい、というような熱血漢であったようだ。
しかしイエスは、その熱血漢であるペトロに、あなたは今日、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うだろう、と言うのだ。そんな大変な状況がもう目の前にまで迫ってきているという。自分の信念や力だけでは太刀打ちできないような苦しい大変な危機が迫ってきている、と言うのだ。信仰がなくなってしまいそうな事柄が迫っているというのだ。
これを聞いたペトロはどう思ったか。他の福音書では、ペトロは、そんなことは言いません、ときっぱりと否定している。一所懸命にイエスについてきたこの自分が、自分の師匠のことを知らないなんて言うわけがない、何が起ころうとそんなことあるわけないと思っていたのだろう。自信があったのだろう。しかしイエスが捕らえられてしまい、極悪人のような扱いを受けるという思わぬ事態になっていく。全く予期していない事態が起こり、自分の身の危険も感じていたのだろうか、ペトロはイエスを知らないと言ってしまう。
苦難
私たちは、苦しい状況になったときにどうなるか、自分に火の粉が降ってきそうになったとき、自分の身に危険が及びそうになったときどうなるか、どんなに自信があったとしてもどうなるか分からない。自分には信仰があるから大丈夫、と思っていたとしても実際に危険が迫ってくると、大変な苦しみに直面すると、実際はどうなるか分からないというのが正直なところだろう。
例えば、信仰があるから神を信じているから死は怖くない、というようなことをいう人もいる。それもすごいな、と思う。でも今元気だからそんなこと言えるんじゃないの、と勘繰ったりする。自分に死が迫ってきた時果たしてどうなるか。分からない。死が現実のものとなったときに自分がどうなってしまうかとても心配である。身体の具合が悪いときに、実は悪い病気になっていてそのまま死んでしまうかもしれない、なんて死を自分のこととして考えているとぞっとすることがある。死ぬ時どうなるのか、死んだ後どうなるのか、はっきりとはしていない。死んでも神の手の中にあるのだと思っていても、やはりどこか遠くへ引っ越すのとは訳が違うだろう。
死だけではなく生きていく中で私たちにはいろんな苦難や悲しみがある。信仰があるから何があっても大丈夫、なのだろうか。何が起こっても平気なのだろうか。絶対に信仰を失うことはない、どこまでも信じる、何も恐れない、と本当に言えるのだろうか。それほどの信仰を私は持っているのだ、と言えるのだろうか。それほどの信仰を持っていないと私たちは失格なのだろうか。
弱さ
ペトロは、私はどこまでもイエスについていくと言っていた。きっとそんな信念を持って、確信を持ってそう言ったのだろう。そう言えるほどのものをペトロは持っていたのだと思う。しかしそのペトロの持っていた信念を吹き飛ばす事態が起こってしまった。きっと少々のことならペトロはその信念をずっと持ち続けただろうと思う。しかしその信念を持ち続けることが出来なくなるようなことが起こってしまったのだ。
そこでペトロは相当に打ちのめされてしまっただろうと思う。自信があっただけに余計に失望は大きかったに違いないと思う。どんなことでも立ち向かっていける、命の危険があっても信念を貫いていける、という自信は崩れ去ってしまったのだろう。そんな自信を誇らしげに自慢していたのに、そんなものはもろくも吹き飛んでしまったわけだ。自分の駄目さを、あるいは自分の弱さを、それは本当の自分ということかもしれないけれど、それを突きつけられたのだろう。
イエスの目
ルカによる聖福音書のなかに、次のような箇所があります。
しかしペトロは言った。「人よ、わたしはあなたの言うことがわかりません。」そう言いおえないうちに、すぐ、ニワトリが鳴いた。主は振り向いて、ペトロを見つめられた・・・ペトロは外に出て、激しく泣いた。
わたしは〈主〉とかなりよい関係にありました。わたしは〈主〉にさまざまなことをお願いし、〈主〉と会話し、〈主〉をたたえ、〈主〉に感謝したものでした。
でもいつもわたしは〈主〉が、〈主〉の目を見なさいとおっしゃっているように感じて不安でした・・・・・・わたしは〈主〉の目を見ようとしませんでした。わたしは話しましたが、〈主〉がわたしを見つめておられると感じたとき、目をそらしました。
わたしはいつも目をそらしました。そして、なぜかわかっていました。わたしは怖かったのです。懺悔していない罪のとがめをそこに見いだすように思ったのです。そこに、ひとつの要求を見いだすだろうと思ったのです。〈主〉がわたしから何かを望んでおいでと思ったのです。
ある日、わたしは勇気をふるって、ついに見たのでした! なんのとがめもありませんでした。なんの要求もありませんでした。目はただこう言っていました。「わたしはあなたを愛する。」わたしは目の中を長い間のぞいていました。すみずみまで見ました。そこには次のメッセージがあるだけでした。「あなたを愛する!」と。
わたしは外に出て、ペトロのように泣きました。
『小鳥の歌』アントニー・デ・メロ著 より
ペトロがイエスを知らないと言い、鶏が鳴いた。その時イエスは振り向いてペトロを見つめた。イエスに見つめられて、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろう、と言ったイエスの言葉を思い出した、と言う。
イエスのそのまなざし、それはお前のことは全部分かっている、私を知らないという弱さを持っていることも分かっている、それでもいい、知らないと言ってもいいんだ、弱さを持っていてもいいんだ、失敗してもいいんだ、だから、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい、そんなまなざしだったのではないかと思う。
裏切り者の自分を、黙って、責めることも謝罪を要求することもなく、ただ愛していると見つめてくれたことによって、ペトロは弱さやだらしなさ、そして失敗もするという自分自身を受け止めていけたのだろうと思う。
いつくしみ深き、という讃美歌の3番に、「いつくしみ深き友なるイェスは、変わらぬ愛もて導きたもう、世の友われらを棄て去る時も、祈りに応えて労りたまわん」というのがある。世の中すべての人から棄てられる時も、つまり友だちからも教会からも家族からも全部棄てられる、そんな時もイエスは労ってくれるという。
まだまだだめだ、今のままではだめだ、まだまだ足りない、こんな自分では駄目なのだ、イエスもそんな目で自分を見つめているのではないかと思っている。まわりからそう見られて、いつしか自分自身もそんな目で自分を見つめ、自分で自分を責めている。イエスも同じような目で自分を見つめられているような気になっている。
でもどうやらイエスの目は違うらしい。イエスを知らないと言ってしまったペトロを見つめるイエスの目の中にも、「あなたを愛する」というメッセージがあったのだろう。そして私たちを見つめるイエスの目の中にも「お前を愛する」というメッセージがあるだけなのだろう。
イエスは私たちを見つめつつ、私たちがその目を覗き込むのを待っておられるのではないでしょうか。