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礼拝メッセージより



「逃れの町」 2011年11月27日 
聖書:ヨシュア記 20章1-9節

 旧約聖書の時代から殺人はあったらしい。旧約聖書の最初にある創世記にも、アダムの息子カインが弟のアベルを殺したなんてことが出てくる。人間が神に創造され、次の世代にはもう殺人が起こったということになっている。それくらい昔から殺人はずっとあったということなんだろうか。
 出エジプト記21章12節以下に殺人に関してこう書かれている。「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。」と書かれている。基本的に人を死なせた者は死刑になると言われているみたいだが、故意ではなく、つまり殺そうと思っていないのに殺してしまったときには、その人の逃れる場所を定めると言われている。

 今日の聖書では、その殺人ではなく過って人を殺した者のために逃げ込める町を決めるようにと言う神の命令がヨシュアに伝えられている。
 申命記19章1-13節にも逃れの町のことが書かれていて、そこでは意図してではなく、積年の恨みによるものでもないのに、隣人を殺してしまったという言い方をしていて、そういう人たちのための町を決めておくようにと言われている。そして過って人を殺すということの説明が書かれている。そこには「隣人と柴刈に森の中に入り、木を切ろうと斧を手にして振り上げたとき、柄から斧の頭が抜けてその隣人に当たり、死なせたような場合」とある。
 意図してではなく、過って人を殺した者が逃げ込める町が決められていた。その町は、ケデシュ、シケム、ヘブロン、ベツェル、ギレアドのラモト、ゴランの六つの町だった。
 なぜ逃れの場所と言われているかというと、血の復讐をする者からの逃れた場所だからだ。当時は近親者の義務として血の復讐が課せられていたそうだ。その血の復讐をする者から逃げるための逃れの場所ということだ。申命記19章6節では、「復讐する者が激昂して人を殺した者を追跡し、道のりが遠すぎるために、追いついて彼を打ち殺すことはあってはならない。その人は積年の恨みによって殺したのではないから、殺される理由はない。」と書かれている。過って人を殺しても、その町に逃げ込めばひとまず血の復讐にあうことはないということだ。そういうことで六つの町をそれぞれの地方から選んだようだ。

 じゃあ人を殺しても過失だと言って逃れの町に逃げ込めば大丈夫か言うとそんなことはない。4節に書いてあるように、その町に逃げ込むときには、町の入り口に立ち、その町の長老たちの聞いているまえでその訳を申し立てないといけない。6節には、共同体の前に出て裁きを受けるまでの期間、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、町にとどまらねばならない、と言われている。
 9節にも、過って人を殺した者がだれでも逃げ込み、共同体の前に立つ前に血の復讐をする者の手にかかって死ぬことがないようにした、と書かれている。裁きを受ける前に復讐されないためであって、無条件で逃れられるというわけではない。

 逃れの町について、民数記の35章9節以下にも書かれている。その中でも、24節「共同体はこれらの判例に基づいて、殺した当人と血の復讐をする者との間を裁かなければならない。」と言われていて、逃げた人が本当に過失であったか、殺意がなかったかを裁くわけだ。そして過失が認められたときには、逃れの町で暮らすことができる。大祭司が死ぬまでそこで暮らさないといけない。もし逃れの町から出て、そこで血の復讐をする人と会って、そこで殺されても復讐者に罪はない、なんてことも書かれている。

 その町での生活がどんなものになるのかよくわからないけれど、その町を出ることができないということは、いわば監獄みたいなものなのだろうか。大祭司が死ねば赦されて自分の町へ帰れるということになるみたいだけれど、そうすると自分が死ぬのが先か、大祭司が死ぬのが先か、ということになってきそうだ。

 しかし過って人を殺してしまうというのはどんな気持ちなのだろうか。例えば、車を運転してて人を轢いてしまう、殺してしまうという危険性は運転している人にとっては誰もが持っている。人を殺してやろうなんて全然思ってもないのに、たまたま目の前に人が飛び出してくると殺してしまうかもしれないのだ。
 もしそうなったらどんなに苦しいだろうなと思う。もっとスピード落としておけばとか、もっと注意しておけば、ああしとけばこうしとけばと散々後悔して、自分を責めるんだろうなと思う。
 逆に自分の家族が車にひかれて死んでしまったらどう思うんだろうか。やっぱりあいつの所為で死んだ、あいつが殺したと思うんだろうなと思う。そして仕返しをしてやりたいと思うんだろうな。

 でもそこで仕返しをしたら、またそれに仕返しされ、また仕返ししてってことになりそうだ。そうなると滅茶苦茶になる。

 旧約聖書は基本的には、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない、ということで同じ物で償うようにと言われている。償いをすることで憎しみを精算するようにというかもしれないと思う。
 でも過失致死の場合には命は守ろうとされている。その気はなくても、殺したくなくても相手を死なせてしまうことが実際にある、その危険性は誰にでもあるということなんだろうと思う。だからそれは殺意を持って殺すのとは違うのだから、そういう人は守ろうとする、そのための逃れの町なんだろう。

 マタイによる福音書5章38節以下でイエスは
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 なんだかとんでもないこと言うよなと思う。まるで人間でなくなれと言っているかのようだ。そんなこと出来るわけないと思う。

 またマタイによる福音書7章1節以下では、
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」
 なんてことも言われている。足を踏まれても踏んだ側は気付きもしないなんてことが確かに多い。
 お互いに迷惑をかけあい、傷つき合って生きているのが私たちの現状でもあるのだろう。イエスはそのことをしっかりと分かっていなさい、同じ物で償うことで精算をするのではなく、赦すことで精算するように、愛することで精算するようにと言われているようだ。
 

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