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礼拝メッセージより
「出会い」 2011年12月11日
聖書:ルカによる福音書 24章13-35節
エマオ
エマオの途上。エマオはエルサレムから60スタディオン、約11km離れた所へ向かう途中の話し。イエスが十字架で処刑された後の出来事。
不信
女たちが天使からイエスの甦りを知らされたが使徒たちは信じなかった。愚かな話しだと思えた。そのことがすぐ前のところに書いてある。使徒たちはイエス自身が復活すると言っていた事を何度も聞いていたはず。でもこのときそのことをすっかり忘れているかのようだ。それが本当に起こる事とは思っていなかったのか。
このエマオへ向かう二人の弟子たちも同じように愚かな事と思ったのだろう。この二人にイエスが、イエスの方から近づいてきた。しかし彼らにはそれがイエスとはわからなかった。イエスは「何を話しているのか」と問いかける。弟子たちは暗い顔をして立ち止まった、と書かれている。
弟子たちはエルサレムで大騒ぎになっている話しを知らないのかと逆に問い掛ける。力ある預言者であったイエスが処刑され三日目になる、ところが婦人たちは天使から、イエスは生きている、と告げられたと言い、墓からも遺体はなくなってしまった。弟子たちはそう告げた。
彼らにとって十字架の出来事は悲しい出来事だったのだ。この時彼らは悲しみに打ちひしがれ、落胆し失望していたことだろう。だからこそ目の前の人物がイエスとは気付かなかったのだろう。
イエスが処刑されてしまったショックはとても大きかったのだろう。自分たちがこれぞと思ってついてきた師匠が殺されてしまった。それこそ人生をかけてついていったイエスがこともあろうに十字架でまるで罪人のように処刑されてしまった。なんでこんなことになってしまったのか、その気持ちが整理できないうちに、今度はイエスが生きているという話しを聞き、遺体も見つからないという。天使が復活したと言い、実際遺体もなくなっているんだからその通り復活したのだと思えば、そうすれば希望も湧いてくるだろうと思うけれど、そこまでも考えられないような、なにがどうなっているのかさっぱりわからない、混乱しているといった状況だったのだろう。
納得
イエスは弟子たちに対して、かねてから預言者を通してメシアは苦しみを受けて栄光に入ると伝えられているではないか、と教えられた。弟子たちもそのことは多分よく知っていたはずだ。知ってはいたがこの時は思い出せなかったのか。思い出していたかもしれないが、それが実際に起こることとは思っていなかったのかもしれない。
彼らはこの時のイエスの説明によってそのことをやっと理解した、本当に納得したのではないか。頭では分かっていても、心では分かっていない、なんてことがあるがそんな状態だったのかもしれない。
彼らはイエスに自分たちと同じ所に泊まるように誘い、そこで食事を共にした。食事の時になってやっと彼らはその人がイエスであることがわかった。イエスが甦ったこと、復活したことをやっと知った。ところがイエスだと分かった時にイエスは見えなくなったと言う。折角イエスと分かったのに見えなくなってしまった、と落胆しそうな気がするが、しかし今度は彼らは失望しない。
燃える思い
彼らはイエスが道で話している時に自分たちの心が燃えていたことを感じていたことを確認し合う。イエスは道々聖書を解き明かしていた。その相手がイエスだった、それが復活のイエスだったことを改めて知った。イエスを見るだけでは分からなかった、心が燃えることもなかった。しかし聖書を聞くことで、聖書の言葉を聞くことで、聖書の言葉が心に入ってきて、心が燃えたのだ。イエスだと確認できたときにそうなったのではなく、聖書の解き証しを聞いたときに、この数日の出来事は旧約聖書に書いてある通りじゃないか、旧約聖書で預言されていることじゃないかということを聞いたその時にすでに心が燃えていたというのだ。
食事のときに讃美しパンを裂く行為を見たときに弟子たちはイエスと分かった。そしてイエスは見えなくなった。けれども彼らはイエスが見えなくなったことでまた落胆するなんてことはなかった。彼らのとってはイエスが見える所にいようと、見えないところにいようとどっちでも良かったのだろう。復活のイエスに出会ったというだけで十分だったのだろう。かねてから預言されていた出来事が起こっている。神の計画どおりになっている。神の計画という大きな流れの中に、その神の手の中に自分達がいることを弟子たちは知ったのだろう。
イエスが十字架で処刑されたことから弟子たちはすっかり神を見失ってしまっていたのだろう。これから一体どうなるのだろうか、誰を頼りに、何を頼りに生きていけばいいのだろうか、イエスの弟子だったと言うことでひどい目に遭うかもしれない、そんないろんな心配で頭がいっぱいで、神を見失ってしまっていたのだろうと思う。
しかしイエスから聖書の話を聞くことで、もう一度神を見つめるようになった。神の大いなる計画の中に生かされていることを知った。だから弟子たちはイエスを見なくなったことで落胆することもなく、そのことをまるで嘆いてもいない。
イエスだと気付いた途端見えなくなるなんて一体どういうことなんだろうと思う。どんなことが起こったのか正直言ってよく分からない。このことば通りのことなのかどうか、多分そうじゃなくてきっとルカが極端な書き方をしているんじゃないかとは思う。でも落胆し失望していた弟子たちがイエスの復活の出来事を通して元気になっていったということは確かなようだ。今日の所でも詳細はよくは分からないが、イエスと出会ったことで心が燃えてエルサレムへ帰っていこうという気持ちになったことは確かなことのようだ。
聖書
昔聞いた話しだが、ある農家の人が教会に行くようになって神を信じるようになり、自分の畑に十字架を立てて、これでこの畑は害虫からも大雨からも守られると言ったという話しを聞いたことがある。牧師が誰かがそれは違いますよと言ったという話しだったと思う。十字架に力があるわけではない。
同じように聖書に力があるわけでもない。聖書もただの本、ただの印刷物である。確かにその通り。この本自体がありがたいのではない。この本を拝んでも何にもならない。この本を高い棚に飾っておく必要もない。しかしこれを読む時、あるいは聞くとき、その言葉が心のうちに入ってくる。
イエスが目に見える姿となって私たちのところへ現れることはないかもしれない。何を話しているのか、なんて近寄ってくれたら嬉しい気もするが。しかしそんなことはないみたい。でも私たちは言葉を通してイエスと出会っている。聖書を通してイエスの語った言葉やイエスの行ったことを聞く、そうやって私たちはイエスと出会っている。
ラブレターをもらう時と似ていると思う。その人と面と向かって会うわけではないけれども、その人の思いを感じることができる。そしてわくわくしてドキドキする。
イエスの言葉を聞く時、触れるとき、その言葉は私たちの心を燃やし、私たちの心を熱くさせる。この聖書の言葉を通して、御言葉を通して私たちはイエスに出会っているようなものだ。そしてイエスの言葉は私たちの心を熱くさせる熱を持っている、力を持っているのだ。
寄り添う
イエスは、神を見失い落胆し、エルサレムから逃げていく弟子たちに自分から近づいていった。そして彼らに聖書を解き明かしたというのだ。
イエスは、俺がその処刑されたイエスだ、俺がメシアだ、なんで俺がわからないんだ、お前たち何を見ているんだ、なんてことは言わなかった。イエスは弟子たちの苦しい状況も全部知っているのだ。
私たちもいろんな大変な状況の中に生きている。現実の厳しさが自分を打ちのめす。聖書の言葉なんか聞いてられない、そんなもの信じられない、と思うような出来事がいっぱい起こってくる。もう何がどうなっているのか訳が分からない、どうすればいいのかわからない、ということが起こってくる。
私たちが神を見失うような時にも、イエスは自分の方から私たちに近づいてきてくれるのだろう。私たちの力でイエスにしがみつくのではなく、イエスの方から私たちを掴んでいてくれる、時には抱きかかえて、時にはおんぶして、そういうふうにイエスは、神はいつも私たちと共にいてくれているのだ。
この神が私たちのことを愛してくれている。大事に大事に思ってくれている。そのことを私たちは聖書を聞くことで、イエスの言葉を聞くことで知っていく。この聖書の言葉を通して私たちはイエスと出会っていくのだ。