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礼拝メッセージより
「滅ぼし尽くした?」 2011年11月20日
聖書:ヨシュア記 6章1-21節
エリコ
ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は、ギルガルというところで宿営してそこで割礼を施したということが5章に書かれている。そして6章でエリコを攻めることになる。
2章でエリコに偵察隊を送り込んだことが書かれているが、エリコ側から見ると、その偵察隊を寄越したイスラエル人たちがヨルダン川を渡って、いよいよ目の前に迫ってきたということで、城門を固く閉ざして誰も出入りできないようにした。
そのとき主がヨシュアに、エリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す、と言われ、具体的にどうすればいいかということを言われている。
兵士は皆町を一周し、それを六日間続ける。7人の祭司は角笛を持って神の箱を先導する。7日目には7周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らす。その音を聞いたら民は鬨の声を上げる。そうすると城壁が崩れ落ちるからその場所から突入する。ということだった。
その命令に従って行動することになったけれど、角笛を鳴らすのは7日目だけだったはずなのに、ずっと鳴らしていたみたいだ。
7日目に7回回ってから角笛を鳴らし、それを聞いた民が鬨の声を上げると城壁が崩れ落ちて、そこから町に突入して男も女も若者も老人も家畜もあらゆるものを剣にかけて滅ぼし尽くした、と書かれている。
ほんまかいな
こんなことが本当にあったのか。
作戦としてはなかなか面白い。敵が籠城した際に正面から戦いを挑んでも犠牲者が増えるばかり。
ある人はこれはうまい心理作戦だと言っていた。
恐れていたイスラエル人が干上がったヨルダン川の渡ってきたことは既にエリコの住民に知れ渡っていたはず。その軍団が角笛を吹き鳴らしながら、連日町の周りを回る。
エリコの住民にとっては、とても不気味な音に聞こえたに違いない。守備隊にとっては、いつ攻めてくるか分からない相手に緊張の連続。
そこでヨシュアは一斉に鬨の声をあげさせる。エリコの住民は大あわてになっただろう。鬨の声と同時に、城壁が崩れたのは最初から計画されたものだったのではないか。6日間町を回る間に城壁の弱そうな所に目星をつけ、可能であれば夜間にその場所の石やつなぎ目のモルタルを少しずつ崩しておき、合図と同時に投石機で岩を投げたりして、一気に破壊したのではないか。
そんな風に言っている人がいた。結構現実に近いような気もする。
滅ぼし尽くす
そして町の人も家畜も全部滅ぼし尽くした、ということに関しても実際にそうだったのだろうか。
旧約聖書には確かに滅ぼし尽くせ、という命令は何回も出てくる。そしてそうしたとも書かれている。けれども実際にはもともとカナンにいた人たちがみんな滅ぼし尽くされたわけでもなく、その後はいろんな交流が起きているようだ。後々にはもともといた人たちの信仰の影響も受けていった。他の民族の神々を信仰するようなことも多く、やがてイスラエルが王国になってからは多くの王が他の国々の神を像を作り、その神々を拝むようなことになっている。だからもといた人たちを根絶やしにしたわけではないだろう。
やがてイスラエルの国は滅ぼされて、バビロン補囚という憂き目に遭う。そこで、どうして自分たちの国が滅ぼされてしまったのか、どうしてこんな苦しい目に遭わないといけなかったのかと考えた。そこでの結論が、自分たちが先祖の神、エジプトから救い出してくれた神の命令に従うことをしないで、外国の神々を拝んできたことが原因だったということになったようだ。偶像を造るな拝むなと言われてきたことにまっこうから反することをしてきた、それが自分たちの国を滅ぼす原因だったという考えに至ったようだ。
そこで考えられたのが、本来カナンの地へやってきたときには、その土地の住民は滅ぼし尽くすべきだった、本当はそれが神の命令だったのではないか、そうだったはずだ、という思いになったのではないかと思う。
バビロン補囚の時代に旧約聖書の多くは編集されているそうで、そんな考えが反映されて、滅ぼし尽くせ、という命令になっているのではないかと思う。
聖書
聖書ってのは神の言葉だから全く間違いはないのだ、という考え方もあるそうだけれども、でも結局は人間が書いた物であり人間がまとめたものであるから、その人の思いや考え方の影響は入っていて当然だと思う。間違いを持った人間が書いた物だから間違いがあって当然だと思う。
聖書ってそれぞれの時代の信仰告白みたいなものかなと思っている。その時々に神から聞いた言葉もあるだろうし、考え抜いた末にたどり着いた思いみたいなものもあるんだろうと思う。悩んで苦しんで、その末に見いだした光のようなものもあるんだろうと思う。そんな自分の到達した神を、後世に伝えようとしてまとめられたのが聖書なのだと思う。
大げさに書かれていたりすることもあるようだ。でもそのことを通して何を伝えようとしているのかと言うことをこそ読んでいきたいと思う。勝手な思いこみじゃないかと思うようなこともあるし、何もかも神のせいにしすぎじゃないかと思うようなこともある。何よりも、その人を神がどう支えてきたのか、その人が神にどう生かされてきたのか、そんなことを読み取っていけばいいのではないかと思う。
滅ぼし尽くした、というのは本当に神の命令だったのかどうか。どうも違うのではないかという気がしている。今の時代から考えたらとんでもないことと思うけれども、聖書がまとめられた時代の人にとっては、相手を徹底的にやっつけるということに大した疑問も持たない時代だったのではないかと想像する。イスラエル民族の国がなくなることはあってはならないこと、その原因となったカナンの原住民はいなくなっても構わないという思いがやはりどこかあるのだろうと思う。
自分たちこそ優れている、自分たちこそ神に選ばれている、自分たちこそ神に愛されている、そんなおごりがやはりここにあるのだろう。だからこそ滅ぼし尽くせ、と神は命令したはずだという思いになっていったのではないかと思う。
イエス
イエスは、敵を愛せ、と言われた。神は自分たちの味方である、自分たちは正しい、間違っている者は皆殺ししにしてもいい、と思っている者たちに向かって、イエスは敵を愛せと言ったのだろう。
神が求めているものは何なのか、神が本当に語っていることは何なのか、それをしっかりと聞いていけと言われているのだろう。
自分は正しいと思っている、神に従っている私たちに向かってこそイエスは語っているように思う。