前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「記念碑」 2011年11月13日
聖書:ヨシュア記 4章1-9節
ヨルダン川
モーセ亡き後、イスラエルを導いたのはヨシュアだった。モーセが神の声を聞いて民に伝えたように、今度はヨシュアが神の声を聞いて民に伝える役を担うことになった。そして神の命令の下、約束の土地に入り、その土地を征服し、嗣業の地として12部族に公平に分配する、ということがヨシュア記に書かれている。
1:2で主はヨシュアに「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に入りなさい。」と言われている。ヨシュアはまず斥候を送った。斥候ってなんだろうと思ったら偵察隊のようだ。偵察隊はエリコに行き、そこの人たちがイスラエルの民が近づいてきたことでおじけづいている、と報告し、イスラエルの民はいよいよヨルダン川を渡る。そのことが3章で書かれている。
祭司たちが担ぐ契約の箱を先頭にヨルダン川に入っていったが、祭司たちの足が水際に浸ると、川は上流でせき止められて、その間に民が渡った、なんて書かれている。出エジプトの時に葦の海の水が分かれたのを彷彿とさせる、というかそれと同じことがここでも起きたと言いたいようだ。
記念
そして民がヨルダン川を渡った後のことが今日の所だ。
主がヨシュアに、民の中から12部族ごとに一人ずつ、12人を選んで、ヨルダン川の真ん中の祭司たちが足を置いた場所から石を12個拾ってきて今夜野営する場所に据えさせなさい、と命じた。
ヨシュアは主が命じた通りにするようにと選ばれた12人に命じて、さらに祭司たちが川の真ん中で足をとどめた後に十二の石を立てた。それは今日までそこにあるそうだ。今日っていつなんだろうと思うけれど。
なぜそんなことをしたのかという理由をヨシュアが民に告げている。それが4:21以下に書かれている。
「後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いたところを渡ったのだと教えねばならない。あなたたちの神、主は、あなたたちが渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、我々が葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じである。それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。」
エジプトを出るときにも神はその力を現して助けてくれた。同じように今回もその力を現して助けてくれた。自分たちは神によって助けられた民なのだということを子供達に伝えていくために祈念碑を建てたということのようだ。
人間って忘れっぽい。助けられたとか救われたという思いも感激も案外忘れやすい。誰かが、やくざはクリスチャンよりも偉いと言っていた。やくざは親分に一度助けられたらそのことを義理に感じて親分のためにずっと働くけれど、クリスチャンは神に助けられてもすぐ忘れてまた助けてくれ、もっと助けてくればかり言っている、やくざの方がよほど偉い、というようなことを言っていた。それが本当なのかどうなのかよく分からないけれど、でも確かに神に助けられたことも忘れやすい気はする。神に守られている、愛されているということも忘れやすい。
クリスマスやイースターなどを毎年記念としてやっているのもそういうことなんだろう。そして毎週の礼拝も、イエス・キリストの復活を忘れないため、毎月の主の晩餐も、イエス・キリストの十字架の死を忘れないため、それを記念するために行っているということなんだろう。
イエス・キリストの十字架の死、そして復活を、それはただ単にイエス・キリストの出来事ではなく、それほどに神が私たちを大事に思い、大切に思っている、私たちを救うため、私たちを赦し、神の子供とするためのできごとであった。そしてそのことを忘れないための礼拝であり、主の晩餐であり、クリスマスやイースターなのだろう。
忘れっぽい人程礼拝に来た方がいいかもしれない。牧師が一番忘れっぽいのかな。
忘れっぽいというか、いろんな出来事がある中で見えない神の導きとか神の守りとかって見失いがちだ。失敗したり、挫折したり、うまくいかないことがあったりすると、自分はなんて駄目な人間なんだろうと思ってしまう。自分はなんの価値もない人間のような気になってしまう。そうすると何をする気力もなくなってしまう。自分の無力さを嘆き、駄目な自分を責めて、自信をなくし落ち込んでしまう。
案外そんな時に帰っていくのが祈念碑なのかもしれないと思う。子供達に伝えるためということもあるだろうけれど、それだけではなく、生きる気力もなくし真っ暗闇に落ち込んでしまったときに帰っていくところこそが祈念碑なんじゃないかと思う。
自分にとって祈念碑って何なんだろうかと考えている。神の助けは神の守りを思い起こさせてくれるものってなんなのだろう。
やっぱりそれは神の言葉なんだろうと思う。それでもお前が大事だ、お前は自分のことを駄目だと思い、自分自身で自分を責めているかもしれない、でも私はお前が大事なのだ、大切なのだ、大好きなのだ、そういう神の言葉、それこそが自分にとっての祈念碑なんだろうと思う。
表彰状をもらうとよく額に入れて高い所に飾っておく。そんな自分の業績を称えてもらうことはとてもうれしい。そんな時は上を向いて自慢げにも思う。でもそれよりももっと大切なのは自分が下を向くしかないとき、とても上を向けないときにもそこにある助け、そんな何というか、下からの支え、根っこからの支え、それが私たちには必要なのだろうと思う。
神の助け、神の支えとはそんな風に私たちが下を向くしかないときに、下から私たちを支える、土台のような支えなのだと思う。そんな神の支えを思い出すところ、それこそが礼拝であり、主の晩餐なのだと思う。それこそが私たちの記念碑、私たちが帰ってくる所なのだと思う。