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礼拝メッセージより
「未完成」 2011年11月6日
聖書:申命記 34章1-12節
モーセ
モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出すということが神から託された務めだった。でも目的地であるカナンの土地へは行けないと言われる。
40年間に渡って放浪してきて、ついに約束の地を目の前にした。でもその土地を見ることはできたが入っていくことは許されなかった。
今まで神と民との板挟みにあって、何か問題が起こると民から散々文句を言われたり、神をなだめたり、民に向かって厳しいことも言わないといけなかったり、そうとうしんどい思いをしてきた。
なのにやっと約束の地の目の前までやってきているのに、もうすぐ入れるのに、お前は入れないなんて言われてしまうなんて、残酷だなという気がする。折角ここまでやってきたのにと思う。有終の美を飾らせてあげればいいのにと思ってしまう。
死
モーセはそこで死んでしまう。聖書では主の命令によってモアブの地で死んだ、なんて書かれている。どんな死に方なのかよくわからない。どんなだったんだろう。
だいたい人の死は突然だ。というか予定を立てられない。何月何日何時何分になんてことは分からない。分かったら怖い気もするけれども、分からないから多分その時まで死なないつもりでいるだろうと思う。将来にいろんな予定があるまま、でもその時が来れば死んでいくんだろうと思う。
生きていく内になすべきことをきれいさっぱりやり終えて死を迎えれば丁度いいのかもしれないけれど、そんなわけにはいかず、やりおえないで、中途半端で死んでいくんだろうなと思う。まだやりたいことや、やらなきゃいけないことがあるんだ、という思いを持ちつつ死んでいくんだろうなと思う。そして残された者が、あれもこれも中途半端なままだと思うのだろうなと思う。
きっと誰もがそんな風に自分の人生を未完成なままに終えるんだと思う。モーセが約束の地は入れないというのもそうだけれども、たとえ約束の地へ入っていったとしても、やっぱり新しい予定や心づもりはどんどん生まれてくるだろうし、そうしている内に死を迎えることになったんだろうと思う。
未完成
だから人生は誰もが未完成で終わるのだと思う。それでいいんじゃないかと思う。成し遂げることができることもあるし、成し遂げられないこともあるし、成し遂げられないことばかりかもしれないけれども、それはそれでいいんじゃないかと思う。
成し遂げたかどうかというよりも、何かに向かって行くこと、目標に向かって行っていること、それこそが大事というか、価値があるんじゃないかと思う。
むしろそれよりも、何かに向かっているというよりも、毎日を、今を生きていること自体にもう価値があるんじゃないかと思う。生かされて生きている、そのこと自体に価値があるんじゃないのかな、と思う。
約束の地に行くというのがイスラエルの民の目標だった。でも40年間もかかってしまった。ということは世代が交代して次の世代に変わっていたはずだ。ということはその40年の間に死んだ人、約束の地に入らずに死んだ人はモーセだけではなくていっぱいいたはずだ。ではその人たちの人生に意味はなかったのか。約束の地へはいることだけに意味があるとしたら、そこにいけなかった人の人生には意味がないかのようだ。
そんなことはないはずだと思う。それぞれの人生にやっぱり意味があると思う、というか思いたい。
人生の意味というのはもっと根本的なところにあるんじゃないかと思う。生きていること自体、生かされているということ自体に意味があるんじゃないのかと思う。
立派な成績をとって、立派なことをして、立派な人間になって初めて誉められることが多い。そうすると何もできない、りっぱになれない自分には意味がない、何かを成し遂げられない自分には価値がないような気になってしまう。
でも神はそんなこと言ってないと思う。何かが出来るとか出来ないとかいう以前に、ここにいること自体、存在すること自体を全面的に肯定していると思う。
そうすると、この世に生まれてきたこと、そして生かされていること、もうそのこと自体がすごいことなんじゃないのかなと思う。案外そのことのすごさを私たちは忘れてしまっているんじゃないのかと思う。
モーセが約束の地へ入れなかったことは悲しいことだけれど、それでモーセの人生の意味が薄れるというわけではない。何か偉大なことを成し遂げられなかった人生は意味がないわけでもない。後生に何も残せさなかった人生に意味がないわけでもない。
きっと私たちの人生も未完成で終わるのだろう。何も成し遂げられないかもしれない。今ここに生かされていること自体に意味があるんだろうと思う。そのことを喜ぶことが大事なんじゃないかと思う。今日を生きていることを喜び感謝することが大事なのだと思う。