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礼拝メッセージより
「分かち合い」 2011年10月30日
聖書:申命記 24章14-22節
あこがれ
ネットを見ていると、中国の大富豪の話が出ていて、豪邸を持ってブランド品を買っているだけではなく、最近の贅沢はプライベートドクターを持つことだ、と書いていた。自分専用の医者を持っていて定期的に看て貰うことで体調もよくなった、なんて書いてあった。
そんなのを読むと本当に羨ましくなる。お金持ちになって豪邸に住んで、好きな物を買いそろえて、毎日遊んで暮らせたらいいなと想像する。
実際には自分にそんなにお金を儲ける能力があるとも思えないけれど、お金持ちの話を聞くとやっぱりあこがれる。
強く、大きく
お金を持つことだけではなく、いろんなものをいっぱい自分の手に入れることを目指しているのが今の世界のような気がする。金持ちになり、権力を持つこと、多くの名声を集めること、それがこの社会での成功者といわれている人たちの姿だ。
自分が力を持ち、自分が富を持ち、自分があらゆるものを持つこと、それを私たちも目指しているようなところがある。しかし世の中には富も力も限りがある。その中で自分が多くの物を持つためにはいろんなところから、いろんな人から集めないといけない。自分が多くの物を持つことを目指すならば、周りにいる人たちは仲間ではなく敵となる。敵ならばそこからいくら搾取しようが構わないということになるだろう。相手がどうなろうが、生きようが死のうが関係ない、ということになりそうだ。
保障
しかし申命記は全く逆のことを言っているようだ。
24章の6節以下の所を見ると、人の最低限の生活を保障するようにということが書かれている。たとえお金や食べ物を借りないといけないような状態になっているような人に対しても、挽き臼あるいはその上石を質にとってはならないなんてことも言われている。当時は穀物が主食だったそうで、上石を質にとられるとその日のパンを焼くことができなくなってしまう、そうすると命が危険にさらされるということになる。だからそれはしてはいけないということらしい。
また「担保を取るために、その家に入ってはならない」と言う。しかも、「その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない」、そして上着を担保にする場合でも日没には返さないといけないという。上着が布団代わりで、その上着を着て寝ていたそうで、その上着は最後の担保ということのようだ。貧しい人に対しては余計に冷たくあしらうような気持ちになることが多いような気がするが、貧しい人に対しては余計に大事にするようにということのようだ。また貧しい人には賃金はその日のうちに払わないといけないという。その人のその日の食べることに支障をきたすほど搾取するようなことがあってはならない、というのだ。
そして今日の箇所では、畑で借り入れをするときには少しは残しておくようにと言う。落ち穂拾いという有名な絵があるが、その落ち穂拾いもできないようにしてはいけない、それほど徹底的に収穫してはいけないと言うのだ。ぶどうの取り入れのときにも全部取ってしまってはいけないとも。残りの物は寄留者や孤児、寡婦のためのものだという。そんな弱い立場の者のために少しは残しておくようにと言うのだ。
誰のもの
自分の畑にできた物であれば一粒残らず収穫する、それは全部自分の物だ、と思うのが自然ではないかという気がする。きっと今の法律的には自分の土地に出来た物は自分の物で、貧しい人のために残しておくなんて道理はないだろう。でも聖書はどうもそうは言ってないようだ。
お金も作物も、それを持っている人のものではなく、全ては神のものであるということかもしれない、と思う。たまたまお金を多く持つことが出来ているのは神がたまたまその人に多く預けているからで、そのお金はその人だけのものではなく、貧しい人のものもいっしょに預けられているということなのかと思ってしまう。その同じ時を生きている人たちみんなのものをたまたま自分が預かっているということかなと思う。
畑の穀物やぶどうも、その畑や木の持ち主のものというだけではなく、その作物を育てた神のものであり、それはみんなが分けて食べるために神が育てたというような感覚があるような気がする。
何もかも自分のもの、自分だけのものとして独り占めしてしまうことをしてはいけないのだ、といっているようだ。
私たちは、私は自分の持ち物が少しでも増えるように、少しでも減らないようにというような気持ちでいる。自分の持ち分がどうなのかということにばかり関心があるという気がする。しかし聖書はそれよりも貧しい人たちのことを、弱い立場の人たちのことを配慮しなさい、その人たちのことを守りなさい、と言われているようだ。
祝福
まるで貧しい者の尊厳を徹底的に守ろうとしているかのようだ。寡婦の着物を質にとってはならないというのも寡婦の尊厳を守っているということのように聞こえる。
そして弱い立場の者の尊厳、人権を守ることは神の祝福にあずかることでもある、と繰り返し言っている。
共に生きる
隣人との関係を大事にして生きること。それが喜び。全てを独り占めして自分だけが全てを持ったとしても嬉しくないだろう。どれほど多くのお金を持ったとしても、そのお金を使って楽しむ相手がいなければ人生は空しいものとなるに違いないと思う。どんなに少ないものでも分け合う相手がいるならば、その人生は豊かな人生ではないかと思う。
確かマザーテレサだったと思うが、ある貧しい家庭に一袋の米か何かを持っていったとき、その家庭の人はすぐに裏の家に行ったという。何をしに行ったかと思ったらそのお米を半分分けてあげていた、そんな話しを聞いたことがある。
多くの物を取り合って競争したりけんかしたり戦争したりしている社会と、少ない物でも分け合おうとする社会とどちらが豊かなのだろうか。
豊かさは物がどれほどあるか、ということとは直接関係ないのではないかと思う。物がいっぱいあることが豊かではないだろう。物がどれほどあるかは関係なく、それを分ける相手がいるかどうか、神から与えられた物を分け合って一緒に感謝し一緒に喜ぶことの出来る相手がいること、それこそが豊かということではないかと思う。
競争
私たちはいろんな物を取り合う競争をしている。競争社会に生きている。物だけではなく、正しさも正義も競争しているのかもしれないと思う。どちらが正しいかという競争をしている。思い返せば小さい頃から競争させられてばかり、人と比較されてばかりいた。協力することも助け合うことも分け合うこともしてこなかったような気がする。協力というような言葉が額として書かれいたり訓話として聞かされることはあっても、実際はことあるごとに誰かと比較されて、誰かに勝つことがいいことだと言われていた。
分け合うこと、分かち合うことの喜びというものを経験することもあまりないままに来たような気がする。
分かち合い
聖書は、エジプトで奴隷であったことを思い起こしなさい、ということを繰り返して語る。苦しんだ経験があるではないか、その時のことを思い出しなさい、あの時の苦しみを思い出しなさいと言っているようだ。苦しかった時に何を願っていたかを思い出しなさいと言われているようだ。
弱い立場の人たちの権利を守ること、それは神の祝福である、と言われているが、それは私たちの喜びでもあることなのだろう。
新約聖書にも、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と言われている。人にしてほしいことを人にすること、それが聖書そのものだ、とイエスは言うのだ。あるいはまた「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とも言われている。これは教会そのもののあり方でもあると思う。
教会の目的
一定の能力、財力、そして共通した価値観、そのような人々を集めれば、団体としての纏まりが良いわけで、団体を構成する時にそういう配慮をするのは当然でしょう。しかしそのような配慮を必要としない、従って雑然としたままでよい、というよりは雑然としたままでなければならないような団体があります。教会がそれです。教会とは、雑然としたものが互いにいたわり合って調和していく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何か事をする為の条件ではなく目的であることを忘れないようにしましょう。(「神の風景」藤木正三)
隣人をいたわること、愛すること、苦しみも悲しみも、そして喜びも共感すること、分かち合っていくこと、それこそが教会の第一の目的だろう。そしてそれはする方もされる方も共に喜ぶことだ。
神を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛しなさいというのが一番大事な戒めである、とイエスも言っている。
いわたり合い、愛し合う者の真ん中に神はいてくださる。