前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「見えないものに」 2011年10月16日
聖書:民数記 22章22-35節
欲しいもの
テレビの小ネタ。子供がご飯の前にお菓子ばかり欲しがるので母親が、お菓子食べるとご飯が食べれないでしょ、と言うと子供が、ご飯を食べるとお菓子が食べれないでしょ、と答えた。確かにその通りだけど。親の願いは子供に分からせるのはなかなか難しい。神さまもそう思ってるかも。
バラクとバラム
面白い話しである。イスラエルの民は約束の地に向かう途中、行く手を阻むアモリ人を破る。イスラエルの民の数の多さと力の強さを見たモアブの王バラクは恐れをなして、呪術師であるバラムを呼び寄せて、イスラエルを呪ってもらおうと画策する。
当時は職業的先見者とか宮廷呪術師とか呼ばれる人たちがいて放浪していたそうだ。王に雇われるとお告げを語り、その国を祝福し敵を呪うことで報酬を得ていた人たちがいたそうだ。雇われ呪術師はだいたいその国に都合のいいようなことを語ることが多かったみたいだけれども、王は呪術師に自分に都合のいいことを語らせることで、神の言葉を金銀で買い取れると考えていたそうだ。
バラク王は長老たちとお礼の品をバラムの下に送ってモアブまで来てくれるように頼む。ところがこの時は、神からバラムに対して「行ってはならない、イスラエルの民は祝福された民であるので呪ってはならない」と告げられたことから断られてしまう。
しかしバラク王はもう一度、今回は位の高い使者を遣わし、今度はバラクは神の許しが出て出発することになる。そこからが今日読んだ聖書の箇所になる。
ところが、バラムが出発すると神の怒りが燃え上がった、という。自分が許可しておいて怒ることはないという気もするが、それはさておいて、御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっていたというのだ。そしてその御使いを、バラムを乗せているろばには見えたがバラムには見えなかったというのだ。ろばが進まなくなってしまったのでバラムが杖でろばを打った。そこでろばとバラムが「何で3回も打つんだ」、「お前が勝手なことするからだ、剣を持ってたら殺すところだ」、「何を言うか、今までこんなことしたことがあるか」、「いや、ないわ」というような話しをした。
そうしたらやっとバラムにも御使いが見えてひれ伏した。御使いは「何で3回も打つんだ。ろばはわしを見たからよけたんだ。わしにぶつかったらお前を殺しとる」なんてことを言う。バラムは「あなたがいたなんて知らなかったんです。行ってはまずいというなら引き返します」と言う。そしたら御使いが「行きなさい。その代わり、私が告げることだけを告げなさい」てなことを行ったので、バラムはそのままバラク王の所まで行ったというのだ。
一体御使いは何をしにきたのか。神は何を考えているのか。行くなと言ってみたり、行けと言ってみたり、そして出発したら通せんぼしてみたり、でもやっぱり行けと言ってみたり。しかしそれでもバラムは神の言葉に従って行動し、バラク王のところへ行ってからも神の告げる言葉をそのまま語りイスラエルを祝福した。そのことでイスラエルの民は守られることになった。
見えない
イスラエルの民の全く知らないところで今日の物語は進行する。イスラエルの知らない所で神は守っている。
私たちもそんな風に神に守られているのだろう。私たちは自分の願いを叶えてくれるように祈る。あれがこうなって欲しい、これがこうなってほしいと願う。その願いが叶ったり叶わなかったりするわけだが、実は神は私たちが願うよりも先に、私たちが願う前から私たちのことを守ってくれているのだと思う。
イエスもこんなことを言っていた。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイによる福音書6:7-8)だからこう祈りなさい、と言ったのが主の祈りだ。
私たちの知らないところで神が支えてくれている。私たちが気づくことはほんの少ししかないのかもしれない。そんな風に見えないところで神は私たちを支えてくれているのだろう。
子供があれを買ってくれこれを買ってくれとよく言うが、その時にそれを買わないと腹をたててしまう。親は何も買ってくれないというようなことを言う。毎日の食事や服やいろいろと生活に必要なものは誰が買っているのかと思うが、子供にとっては目の前にあるお菓子のことしか頭にない。また親は子供に必要な物を食べさせようとするけれども、子供はうちの親は何も買ってくれないというような文句を言う。
それと同じような文句を私たちも神に対して言っているのかもしれないと思うのだ。私たちの見えないところで、私たちの気づかないところで神は私たちを守り支えてくれているのだろう。私たちを生かし私たちの全てを支えてくれているのだろう。でもその支えが見えにくいのでもどかしい。
見えないもの
時々テレビでも欠陥住宅のことが出ている。土台がしっかりとしていないために家が傾いてしまうことがあるらしい。土台は家にとってはとても大事なものだ。そしてその土台は家が建つと見えなくなってしまう。一番大事なものが実は見えないところなのだ。
この教会堂を建てる時にも、コンクリートを地中に流し込んで柱を何本も作って、その上に基礎を作って、その上に鉄骨を組んで建てている。崖の上に住んでいるときは地震や雨の度にどうかなりはしないかと心配していたが、ここにいると欠陥住宅のテレビを見ても、ここなら少々何かあっても大丈夫と安心している。
そんな風にしっかりとした土台のように、神は私たちを下から支えてくれている。だからその上で、そのしっかりとした土台の上で安心して生きなさい、神はそんな風に言われている。
神の支えもそんな土台のように下から見えない所での支えなのかもしれない。私たちは天から欲しいものが降ってこないかと願う。神さまが私の欲しいものをどんどん降らせてくれたらいいのにと思う。でも神の支えとはそんなものではないのかもしれないと思う。必要なものを上から降らせるというような仕方ではなく、私たちの命もなにもかもすべてを下から支える、神の守りはそういうものだと思う。
ろばがバラムの言うことを聞かなかったように、私たちも自分の願いが叶わない、祈りが聞かれないと思うこともよくある。そうするとバラムのように、どうしてうまくいかないのか、思う通りに行かないのかと文句を言い、誰かに当たったりする。
でも実はそれさえも神さまの導きなのかもしれないのだ。今はその時ではない、あるいはその道へ行くべきではないという導きなのかもしれない。
バラムには神の使いが見えたが私たちにはなかなか見えそうにない。見えないけれど、でも神が導いてくれている、支えてくれている。
コリントの信徒への手紙二 4:18 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
私たちはこの目で神を見えることはできないらしい。でも神は私たちの気づいているところでも、気づいていないところでも私たちをしっかりと支えてくれている。いつでも、いつまでも共にいてくれる、そんな神だ。そんな見えない神を、心の目で見つめていたいと思う。