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礼拝メッセージより
「やってられない」 2011年10月9日
聖書:民数記 20章1-13節
文句
イスラエルの人たちはツィンの荒れ野のカデシュという所にいる。そこには水がなかったために徒党を組んでモーセとアロンに逆らった。
「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ」と言った。
これは16章以下に書かれている事件のことだろう。レビの子孫コラとダタンとアビラムが250人を扇動し、祭司職を求めて、ここと同じように徒党を組んでモーセとアランに、なぜお前達は主の会衆の上に立とうとするのか、と言って反逆したことがあった。しかし、主の怒りが、彼ら反逆者に及び、首謀者コラたちは大地の裂け目に転落し、共謀者250 人も焼き尽くされる。
そして、この事件をきっかけに、「お前達は主の民を殺してしまった」と全民衆の大反乱が起きる。主の怒りはすさまじく、民を救うためにモーセの命令によりアロンが贖罪式を挙行してどうにか災害は治まるけれども、14,700人が疫病で死ぬという大事件になる。
イスラエルの人たちはエジプトから脱出して乳と蜜の流れると言う神から約束された地を目指している。でも彼らは希望に燃えて一丸となっていたわけではない。最初は、これで奴隷状態からも解放されて自分たちに与えられた土地で新しい生活が始まるのだ、と希望に満ちあふれていたのかもしれない。ところが約束の地へはなかなか行けない。そんなに遠くではない。呉から大阪か京都へ行く位の距離なのだ。そこまで行くのに結局40年もかかっている。目的地は分かっているのになかなか着けないわけだ。一体いつになったら着くのか、この旅は何なのか、自分たちを苦しめるだけなのか、そんな不満が渦巻いていて、何か不都合がある度にモーセやアロンにぶちまけていたのだろう。神がこう言っている、と聞かされても、それが本当に神の言葉なのかどうかもよく分かっていなかったのだろう。1万5千人ほども死ぬという事件が起こっても、それが神の怒りによって起こったことなのかどうかもよくは分かっていなかったのだろう。モーセとアロンに対する信頼感もなにもあったものじゃないといった感じがする。
そこで今度は水がない。そうするとイスラエルの民はまたもや徒党を組んでモーセとアロンに逆らう。この前みんなが死んだ時に一緒に死んでいたらこんなに喉が渇いて苦しむこともなかったのに、こんな荒れ野で死なせるために連れて来たのか、乳と蜜の流れる地に連れて行くと言ったくせに、今居るのは種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、それに水さえない、何もないところじゃないか、と嫌味たっぷりに言ったのだろう。
ひれ伏す
モーセとアロンは、会衆から離れて臨在の幕屋の入り口に行って、そこでひれ伏した。
臨在の幕屋の入口でひれ伏すとあるので、礼拝しているかのようであるけれどどうも違うらしい。礼拝するときにも使う言葉だそうで、地に顔をつける、というような意味のことばだそうだが、同じ言葉が14章5節と16章4節にもある。そこでは民が不満をぶつけてきたためにひれ伏した、地に顔をつけたと書かれていて、そこでは神を礼拝したという意味ではなくて、民の不満を聞くことに対して地に顔をつけた、つまり聞いてられない、聞きたくない、たまらないと顔を背けた、どうすりゃいいんだと嘆いている、そんな意味合いで使われている。
そうするとここでひれ伏したのも、一体どうすりゃいいんだと嘆いているのか、こんなに文句ばかり言ってくる民のことなどこれ以上構ってられるかと思っているか、ということなんだろうと思う。
しかしそこで主から、杖を取って岩に向かって水を出せと命じろ、と声がかかる。そしてモーセが杖で岩を2度打つと水が出たという。
何が悪い?
水が出たから良かったんじゃないかと思うけれども、どういうわけかモーセとアロンは主に怒られている。わたしの聖なることを示さなかった、だから約束の地に入れないと言われている。
しかし何が悪くて約束の地に行けなくなったのだろうか。
岩に水を出せと命じろと言われていたのに、杖で岩を打ったのがいけなかったんじゃないかとか、二回も打ったのがいけなかったんじゃないかとかいう人もいるけれどもよく分からない。でも杖を取れと言ったのも神であるし、それが原因とも思えない。
やってられない
こう言うと偉そうだけれど、モーセはよくやったよ、と言う気になっている。イスラエルの人たちは自分たちが大変な目に遭うとすぐに文句を言い出す。何でこんなところに連れて来たんだ、こんな苦しい目に遭わせるためか、こんなところで死なせるためだったのか、なんて言われる方はたまったもんじゃない。神からの命令で神の言葉を伝えているだけなのにひどい言われようだ。
たまには文句を言うけれども約束の地を目指している一団ということで、それなりにまとまっているグループだと何となく思っていたけれど、実はそうではなくモーセと民との信頼感もあまりないグループのような気がしてきた。だからこそ何か問題があるとすぐに文句になっていったのだろうと思う。
イスラエルの人たちも、エジプトは出たけれど、この先どうなるか先行きも見えない、かといって今更エジプトへ帰るわけにもいかない、モーセに着いていくしかない、けれど不安は限りなく、不満もいっぱい出てくる。そんな不満も結局はモーセにぶつけるしかない。
そんな民をリードしていくモーセは本当に大変だっただろうなと思う。モーセがひれ伏すというのは、もうやってられないという気持ちを表しているように思う。こんな奴等のことはもう構ってられない、もう知るかという気持ちになっても不思議ではないだろうし、きっとそんな気持ちにもなっただろうと思う。でもそのせいで約束の地に行けなかったというのは違うような気がする。
今日の物語は、モーセが約束の地へと入れなかったのはなぜなのかという原因を説明していると理解するのが一番納得いく気がする。
モーセが今日のところだけ、自分の力で水を出そうとしたとか、神に信頼していなかったとかなんてことはないように思う。
文句を言われるたびにやってられるかと思い、その度に嘆きもう知らないと思ったことだろうと思う。でもその度に神から諭され旅を続けたのだと思う。
それでも神はそんなモーセに語り続ける。やってられるかと思うモーセをなだめ、励まし続ける。
そしてまた神は、信頼感もあまりなく、文句だらけ、今にもばらばらになってしまいそうなイスラエルの民を約束の地へと導いていく。いろんな事件があったり事故があったりもしたようだ。何事もなく無事にというわけにはいかなかった。しかしそれでも神は結局は、イスラエルの民を約束の地へと導くという当初の約束を果たした。