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礼拝メッセージより
「今日の糧を」 2011年9月18日
聖書:出エジプト記 16章1-15節
不平
いろいろな災いを経験し、ついにはエジプト中の初子が死ぬということになってやっとイスラエル人達がエジプトを出て行くことをファラオが認めた。そして遂にエジプトを出発したイスラエルの人たちだった。しかしファラオはまたイスラエルの人たちを出発させたことを後悔して、エジプト軍を率いて追いかけて来た。目の前には海があり、後からはエジプト軍が追いかけてくるという危機に直面したイスラエルの人たちは、こんなところで死ぬために俺たちを連れ出したのか、エジプトで奴隷をしいていた方がよかった、とモーセに詰め寄ったなんてことが書かれている。
そこで神は東風を吹かせて、海に乾いた土地が現れて、そこを渡ることでイスラエルの人たちは遂にエジプトから脱出して、エジプト軍の追ってからも逃れることができた。15章の前半には、私たちは神に助けられた、神はすばらしい、とみんなで賛美したことが書かれている。
その後彼らは、マラというところに来た時には、荒れ野を三日間進んだあとで喉が渇いていたのに、そこには苦い水しかなくて不平を言った。この時にはモーセが一本の木を投げ込むと甘くなった、なんてことも経験している。
その後、エリムという泉のある場所のほとりに宿営していたが、そこを出発し荒れ野に向かった。そして2月15日、エジプトを出発した時を1月1日にしたようなので、それから45日位経ったころということになるみたいだが、荒れ野で食べ物がなくてみんな腹が減って仕方なかったようだが、民はまたモーセに不平を言う。「エジプトで死んだ方がまだましだった。肉もパンもいっぱいあった。俺たちをこんなところで飢え死にさせるために連れ出したのか。」というようなことだった。
イスラエルの人たちは、命の危険が迫ったり、喉が渇いたり腹が減ったり、いろいろと切実な問題が迫ってきているが、その度に不平を言っているようだ。
応答
しかし神は彼らの不平を聞いてすぐに応えた。夕方になるとうずらが飛んできて、その肉を食べることができた。朝には、地表に薄くて壊れやすい霜のようなものがあり、それを食べることができた。イスラエルの人たちはそれをマナと名付けた。
マナはその日に必要な分だけを集めた。次の日まで残しておいてはいけないとモーセに言われていた。それでも残しておいた者がいたようで、次の日には虫が付いて臭くなった。しかし、六日目には二日分を集めることができ、その時には次に日になっても臭くもならず虫もつかなかった。まだ十戒は与えられていないので、厳密には安息日についての律法はまだないはずだけれど、安息日には、労働をしなくてもいいように準備されていたということなのだろう。それでも何人かは安息日にもマナを集めにいったけれども見つからなかったことが書かれていて、どこにでもそういう奴がいたんだなと思うと面白い。
マナとは何なのか。注解書によると、この地方ではあぶら虫の一種がギョリュウ科の低木の果実に穴を開け、その樹液を吸って、黄白色の薄片や球状の分泌物を排出する。温暖な日中の間は分解してしまうが、冷温の時には凝結する。甘みを含み、でんぷん質や糖分が豊富で、今でもシナイ半島のあたりの人たちはそれを集めてパンのように焼くそうだ。しかもそれをマナと呼んでいるそうだ。イスラエルの人たちが食べたマナもそれだったのではないかと言われている。
心配
兎に角イスラエルの人たちはそうやって神に養われた。
イエスが「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。」(マタイ6:26)と言われたことがあった。
まるで空の鳥のように神はイスラエルを養ってくれたようだ。一日に必要な分を、時々二日分だが、その日に与えるという方法で与えた。次の日まで残しておいてはいけない、つまり蓄えてはいけない、と言われている。けれども必要なものを日毎に与えられるのであれば蓄える必要はなかった。日毎に与えられると思えれば、そうするという神の言葉を信じられれば、何も心配もなかっただろう。
でも心配してしまう。これは人間の性なんだろうか。イエスが空の鳥を見なさい、と言われた時も、だから思い悩むな、悩まなくてもいいんだ、ということで言われている。
でも悩んでしまう。いっぱいある内に溜め込んでおこう。いっぱい溜め込んでおけば将来の心配もなくなる、それだけ心配も減ると思っている。だからこそできるかぎり貯めておかないと、と思う。
マナは次の日までもたなかったけれど、お金ならば虫が食うことも腐ることもないので貯めほうだいだ。じゃがいもやタマネギをいっぱい貰うときがあるけれど、あまりにいっぱい貰っても食べきれないで腐るだけだから、却って面倒なことになる。でもお金だったらいくら貰っても困りはしない。そしてお金がいっぱいあれば、ずっと先のことまで心配しないで済むんじゃないか、と思う。
でもイエスは、先ほどの空の鳥を見なさい、という話しの結論として、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自身が思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と言われている。
明日のこと、明後日のこと、その先のこと、何年先のこと、私たちはいっぱいいっぱい悩んでいる。どうなるのか、大丈夫なのかという不安がある。お金が十分あれば、そんな先のことに対する不安を解消してくれるような気がする。
でも神は、お前は私が養うのだから、お前に必要なものは私が与えるのだから、ずっと先の生来のことまで心配しなくてもいい、と言われているようだ。だからあなたは私が今日与えるものを受けなさい、明日のことは心配しないで、今日の糧を受け取りなさい、と言われているのではないか。
私たちは食べ物を自分の力で作り出すことはできない。種を蒔いたり水をやって世話をしたりすることはある。けれどもそれで成長させるのは人間の力ではない。人間の手の中で食べ物を作り出すこともできないし、人間の力で成長させることもできない。
昔から不思議に思っている。畑に種を蒔くと、小さい種からどうして大きな野菜ができるのだろうかと。水を吸って光合成をして、なんていう科学的な反応があって大きくなるというのは頭では理解できても、種を蒔いたらそこから大きな葉っぱができてくるのがとても不思議だ。そしてそうやって成長したものを人間は食べて生きている。自分の知らないところで大きくなったものを食べて生きている。
出エジプトをしたイスラエルの人たちは、自分たちのよく知らない虫の分泌物によって養われた。そして今の私たちも、なぜ成長するのかよく分からないものを食べることで生きている。
今日の糧を
主の祈りでは日毎の糧を今日も与えてください、と祈る。
イスラエルの民は、神の命令通り、その日一日分を集めなさいといわれている。今日神によって与えられた、明日も明日の分を与えられる、そんな神との繋がりを大事にして生きるように、神がその日その日の分を用意してくれるということ、神が毎日毎日自分たちのことを心配してくれている、だから私たちは明日のこと、将来のことを必要以上に心配するなと言われているのではないか。
このイスラエルの人たちの姿は私たちの姿ととてもよく似ていると思う。大変なことがあると文句を言い、うまくいくと神に助けられた、神はすばらしいと言い、喉が渇いたり腹が減ったりすると、俺たちを苦しめたいのか、殺す気なのかとまた文句を言う。自分たちを奴隷であったエジプトから救い出すという神の壮大な計画もよく分かってはいなくて、エジプトは出て来たものの、定住先にもなかなか行き着けず、将来どうなるのかという不安でいっぱい何だろうと思う。
私たちも将来に対する心配事や不安がいっぱいある。うまくいっていると思うときには安心して喜び、ちょっと不都合があると途端に不安になり、その不安に押しつぶされそうになり、夜もゆっくり眠れないなんてこともある。
でも神さまは、今日の不安だけで十分だ、将来の不安まで集めなくてもいい、大丈夫だ、そんなに先のことまで心配しなさんな、必要なものは私が準備しているから、と言われているのだろう。私がいつもついているんだから、だからマナも不安も、明日の分まで集めなくてもいい、今日一日分だけ集めればそれで十分だ、そう言われているのだろう。実は神さま自身が私たちのことをとても心配に思ってくれているのではないだろうか。そう思うとちょっと嬉しく、安心できるような気がする。