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礼拝メッセージより
「歩いていく」 2011年9月11日
聖書:出エジプト記 14章5-18節
窮地
エジプトで奴隷として苦しい思いをしていたイスラエル人たちを救い出すために神はモーセを選び、エジプトの王ファラオと交渉するようにと命令した。モーセはさんざんごねていたが結局は神の命令通りにファラオのところへ出向き、イスラエル人たちを解放するように、との交渉に臨んだ。しかしファラオはそれをなかなか認めなかった。モーセが、認めないと神が災いが起こすぞ、と言っても認めなかった。
そこで神は川の水を全部血に変えるとか、蛙を大発生させる、ぶよやあぶの大発生、それから疫病を起こしたり、腫れ物ができるようにしたり、雹をふらしたり、いなごを大発生させたり、国中を三日間暗闇にしたり、とわざわいを起こした。ファラオはそういう災いが起きたときにはイスラエル人を去らせるから神に災いを止めて貰ってくれと言うけれども、実際は災いが収まるとやっぱり認めないと言い出す始末だった。
最後にエジプトで生まれた初子は全て死ぬという災いが起こり、鴨居と柱に血を塗っていたイスラエルの人たちの家はその災いが過ぎ越す、という事態になった。そこでやっとファラオはイスラエル人たちに出ていってくれといった。
脱出
イスラエル人たちは遂にエジプトを脱出できる、ということで喜んでいたようだ。8節には意気揚々と出ていった、なんて書かれている。苦しい労働から解放されて、エジプトの主人の無茶な命令なんかも聞かなくてよくなった、その喜びに満ちあふれていたのだろう。自分たちの祖先の故郷、乳と蜜の流れる豊かな土地へ帰っていく、ということは聞かされてはいただろうけれども、それはまだまだ先の夢のような話しだったのだと思う。この先どんなことが待ち受けているのかはよく分からない、でもそんなことよりも兎に角奴隷状態からは解放されたという喜びに浸っている、そんな状態だったのではないかと思う。
ところがエジプトの王ファラオはイスラエル人たちを去らせたことを後悔してしまう。エジプト中の初子が死んでしまうということから、お前達がいたらろくなことはないから出て行けとは言ったけれど、改めて考えると貴重な労働力をみすみす失うのはもったいない、連れ戻してもう一度働かそうということなんだろう。エジプト軍は馬と戦車と騎兵と歩兵とで追いかけて来た。
見えない神
エジプト軍が追いかけて来たことを知ったイスラエル人たちの持っていた、しばしの解放感はいっぺんに吹き飛んでしまったようだ。
民はファラオと軍勢が迫ってくるのを見てモーセに文句を言った。俺たちをこんな荒れ野で死なせるために連れてきたのか。前は海、後は軍隊、もう死ぬしかないじゃないか、だから俺たちに構うな、放っておいてくれ、このままエジプト人に仕えて生きていく、そう言ったじゃないか。どうせこんなことになるだろうと思っていたんだ。そんなことだったようだ。
民はエジプトを出ていく前のいろんな災いも経験しているはずだ。エジプトの初子がみんな死んだけれども、血を塗ったイスラエル人の家だけはその災いが過ぎ越していったことも経験してきたはずだ。そしてエジプトを出ていくときには大喜びしていた民だったようだが、エジプト軍を見た途端に嘆きとつぶやきに変わってしまった。
彼らはモーセの言うことを信じてついてきた。信じるというか納得してついてきたのだろう。いろんなしるしももちろん見てきたし、経験もしてきた。これは神の導きなのだというモーセの言葉に納得してついてきたのだろう。
聖書を読んでいると、自分たちのために神がここまでいろんなことをしてくれているのに、どうしてイスラエル人達はそれを信じられないのかと思う。
でもよくよく考えると、イスラエルの民には神が見えていたわけではない。神の声が聞こえていたわけでもない。神の声が聞こえるのはモーセなのだ。民に見えるのはモーセなのだ。神は見えない。
そんな民に神の導きというものがどれほど分かっていたのだろうか。彼らにはまるで分かっていないかのようだ。エジプトを出る前にもいろんな奇跡があった。神がそうしろと命じられているということをモーセが行っているということは聞いていただろう。神がイスラエル人をエジプトから脱出させる、ということを聞いていただろう。そしてそれが現実となったのだと喜んだ。しかしそれに対して困難が起こってくるとそんな喜びは吹き飛んでしまったかのようだ。民にとって語っているのは飽くまでもモーセなのだ。うまくいっているときには神が守ってくれたと思うけれども、うまくいかなくなった時には本当に神はいるのか、モーセが適当なことを言ってるだけなんじゃないのか、モーセに騙されているのではないか、そんな風に思っているような気がする。
神の計画はイスラエルの民をエジプトから脱出させてカナンの地へと導くことだった。しかしそれは言わば天上の計画で民には見えない。民に見えるのは目の前にある海と、後からやってくる強力なエジプト軍なのだ。民にとっては絶体絶命の危機でしかない。
でも神にとってはそれは結局は計画どおりだった。
神は夜もすがら、一晩中東風を吹かせて海を押し返し、イスラエルの民はそこを渡りエジプト軍から逃げることができた。
逆境
前も後もふさがれてしまって逃げ道がない状態にイスラエル人は置かれた。そしてそこで彼らはつぶやいている。どうしてこんなことになるんだ。こんなことのなるためにやってきたのか。ここで死ぬために、惨めに死ぬためにここに来たのか。彼らはそう言っている。
しかしそんな逆境の中に神は逃げ道を作ったというのだ。
イスラエル人を海の近くに導いたのも、ファラオの心を頑なにしたのも、そしてエジプト軍がイスラエル人に近づかないように真っ暗闇にしたのも、一晩中東風を起こしてイスラエル人が海の中の乾いた土地を行くことができるようにしたのも、すべて神がしたことだという。
ファラオがイスラエル人を去らせると言ったり、やっぱり駄目だといったり、出て行けと言ったと思って意気揚々と出て来たと思ったらまた追っかけてきたり、イスラエル人にとっては状況が良くなったかと思ったらまた悪くなり、また希望が出て来たかと思ったらまた絶望的になったりといった状況だったのだろうと思う。しかし神にとっては実は全部計画どおりだったのだろうと思う。
歩いていく
神はイスラエル人をエジプトから脱出させた。しかしそれは神がイスラエル人を神の手に載せて運び出すようにして脱出させたわけではない。海の中に乾いた土地を作ったのも、東風を使ってであった。またその風も、モーセが手を差し伸べることによって起こった。そして民は海の中を歩いていった。イスラエル人自身が歩いていくことでエジプトから脱出したのだ。
「恐れてはならない、今日主の救いを見なさい」(13節)とモーセは民に告げた。逆境の中にあってもそこで神の業を神の救いの業を見なさい、逆境の中に働く神をしっかりと見なさい、モーセは民にそう語る。今は恐れている時ではない、神がその業を見せてくれる時なのだ、だからしっかりとその業を見なさい、そしてここからしっかりと歩いていきなさい、ということだろう。
しっかりと見ていないと見過ごしてしまうようなことを通して神は働かれるようだ。しっかりと聞いていないと聞こえないような仕方で神は語りかけるようだ。しかし神はしっかりとイスラエル人たちを支え守ってくれている。つぶやき不平を言うイスラエル人たちであるが、神は彼らを守ってくださっている。その神の守りの中をイスラエル人たちは進んでいった。
21節には、「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は渇いた地に変わり、水は分かれた。」と書かれている。神の業とか神の奇跡とかいうと、なんだか超常的なことのようなイメージがあるけれど、実際にはそうではないような気がする。ウルトラマンみたいに自分が姿を現して悪をやっつけるなんてことはない。水戸黄門みたいに、このお方をどなたと心得る、と相手を押さえつけることもない。神は隠れているかのようだ。
出エジプトの時に海の水が分かれたのも激しい東風によってと書かれている。見方によってはたまたま風が吹いて助かったという風にも考えられる。22節では水は壁のようになったとあって、たしか映画でもそんなのがあったと思うけれど、これは印象的にしようとした誇張だろうと思う。神さまって案外そんなふうにたまたまじゃないの、と思えるような仕方で守っておられるのではないかと思う。
私たちにも神の守りや導きは見えにくい。神の計画も見えにくい。不安になりつぶやくことが多いのが現実だ。もう駄目だと思うこともある。イスラエルの民もそうだった。神の計画も神の守りも彼らにはほとんど分かっていないようだ。不都合なことがあると繰り返し不平を言う民だった。しかしそんな民を救うという神の計画に変わりはなかった。そしてよく分からないうちに神の計画の中を歩いて行った。不平と不安といっぱい抱えつつ、大変なことに何度も直面しながら、その度に神の業を経験することとなった。
建物の基礎は見えないように、私たちにはそれがなかなか見えない。見えない所で神は私たちを支えてくれている。本当に大丈夫だろうかと疑いつつ、また心配しつつ、でも神に従って私たち自身の足で歩いていく、そこで私たちも神の守りを経験することができるのではないかと思う。
私たちには全てを見通すことはできない。けれども神は見えないところで、私たちもしっかりと支えてくれている。だからこそ私に従いなさい、私の備えた道を歩きなさい、神はそう言われているのではないだろうか。