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礼拝メッセージより
「赦し赦され」 2011年8月14日
聖書:創世記 45章16-28節
豊作と飢饉
ヨセフはエジプトの国を治める者となった。そしてヨセフが解き明かしたとおりに、その後エジプトと周辺の国々には7年間の豊作があり、その後に7年間の飢饉があった。ヨセフは豊作の時に穀物を倉に蓄え、飢饉になると倉を開いてエジプト人に穀物を売ったが、周辺の各地からもエジプトへ穀物を買いに来るようになった。
兄たち
ヨセフの父や兄のいるカナンでも飢饉があり、彼らの食料もなくなってきた。そこで、父のヤコブは子ども達にエジプトで穀物を買ってくるようにと言った。しかし末息子のベニヤミンだけは自分の元に残しておいた。自分の愛したラケルの生んだ二人の息子のうち、ヨセフは獣に殺されたと思っているヤコブは、残るベニヤミンに危険なことがあってはならないと心配している。ヨセフを溺愛していたヤコブは、今後はベニヤミンを溺愛しているようだ。自分がヨセフばかりを可愛がることで兄弟の仲が悪くなり、そのためにエジプトへ売られてしまったということをヤコブは知らないのだ。
10人の兄たちは多くの人たちに混じってエジプトへ穀物を買いに行き、エジプトを治めているヨセフの前にひれ伏した。ヨセフは一目で兄だと気付くが、兄たちは全く気付かない。ヨセフはかつて兄たちが自分の前にひれ伏すという夢を見たこと、そしてその後の仕打ちも思い出したことだろう。彼は兄たちに言いがかりをつける。「お前達は回し者だ。この国を探りにきたんだろう。」と言う。兄たちは自分達の潔白を証明するために、ただ穀物を買いに来ただけであって、父ともう一人の弟がカナンにいることを話す。するとヨセフは、尾末の弟を連れてこないとお前達を返さない、誰か一人が連れてこいなんてことを言って、彼らを三日間牢獄に監禁する。その後、今度は、一人だけ残して後の者は穀物を持って帰り、次には弟を連れて来い、なんてことを言う。
結局シメオン一人を残しておくことになるが、ヨセフは穀物の代金として支払った銀を、穀物を入れた袋に入れておくように命令する。
結局ただで穀物をもらってきたようなかたちになった兄たちは震えてしまったという。ヤコブの元へ帰った兄たちはエジプトであったことをヤコブに語り、ベニヤミンを連れて行けばシメオンも解放されるということを説明する。しかしヤコブにとってベニヤミンはヨセフがいなくなってからの最大の生きがいだったのだろう。再び食料が底をつきそうになって、兄たちが食料を買いに行くからベニヤミンを一緒に連れて行かねばならない、そうでないと売ってくれないと言っても、ベニヤミンだけは離さないと主張する。しかも、どうして弟がいるなんてことを喋ったのかと言う。兄たちにとってはこの期に及んで何を言うか、という気持ちだったのではないかと思う。食料がなかったら一族もろとも飢え死にしてしまう。兄の一人ユダは、ベニヤミンのことは私が保障するから、責任は自分が取るから行かせてくれと頼む。
ヤコブはそこでやっとベニヤミンを連れて行くことに合意する。食料が枯渇しようかというこんな状況でも、相変わらず自分の愛したラケルの生んだ子どもを特別に可愛がるという、とんでもない親父だという気がする。
しかし余程食べ物がなくて困ってしまったのだろうか、ヤコブもしぶしぶベニヤミンを連れて行くことに同意する。しかしベニヤミンのために司政官へのおみやげとして土地の名産品と、代金の銀を二倍持って行くように、つまり返された銀をもう一度支払うようにという。ヤコブは、そうと決まれば速く行って来い、なんて言うのだ。さんざんごねて行かせなかったくせに、今度は速く行けなんて言う。どうしたものかこの頑固親父。
エジプトで
ヨセフは今度はベニヤミンが一緒だったので自分の家で一緒に食事をしようとする。兄たちは前回のことがあり、ヨセフの家に連れてこられたので畏れてしまう。今度は全員捕まってしまうのかと畏れた。
兄弟たちと面会したヨセフは父の安否を尋ね、弟のベニヤミンをじっと見つめる内に、胸にこみ上げてくるものがあったのだろう、席を外して奥の部屋で泣いた。そして顔を洗ってから兄弟たちと一緒に食事をした。ベニヤミンの料理は他の兄弟より五倍も多かったそうだ。
ヨセフは、兄弟たちの袋に食料といっぱい入れ、銀も入れておくように、そして自分の銀の杯をベニヤミンの袋に入れておくように、と執事に命じる。そして兄弟たちを返したすぐ後執事に、追いかけていって、どうしてこんな悪いことをするのか、大事な銀の杯まで盗むとは何事か、と問いつめるようにと言った。兄弟たちは、前の銀も返したではないか、そんな悪いことをするわけがない、銀の杯が出てくるようならその者は死罪に、他の者はみんな奴隷になりますと答える。執事は、杯を取った者だけが奴隷にならねばならない、他の者は無罪だ、と言いつつ袋をしらべていく。ベニヤミンの袋に銀の杯があるのを知った兄たちはヨセフのもとへ引き返す。
ヨセフは、この仕業は何事かなんて問いつめる。兄のひとりユダは、罪が見つかったのであるから兄弟みんなが奴隷になるという。ヨセフは盗んだ本人だけが奴隷になればいいと答えるが、ユダはベニヤミンは父が大事にしていた二人の息子の一人で、上の方の息子はいなくなっており、この子も失うと父は生きてはいけないだろう、この子を残して父の元へ帰ることなどできない、自分が代わりになるからこの子は他の兄弟たちと返して欲しいと願う。
正体
そこでヨセフはついに自分の正体を明かす。それが今日の45章。まるで兄たちへの仕返しをするかのように無理難題を兄たちにぶつけてきたヨセフだった。兄たちの今の気持ちも確かめたいという気持ちもあったのだろう。ヨセフは基本的には兄たちに穴に落とされてそのためにエジプトへ売られたことに対するこだわりはもうないようだ。仕返しをして困らせてやるやるという気持ちも多少なりともあったのではないかと思う。案外仕返しをしてすっきりしたんじゃないかという気もする。
エジプトへ来てからも無実の罪で監獄に入れられるような苦しいこともあったけれど、そこで自分も兄たちに対して威張っていたことや兄たちの気持ちを考えることもなかったことなども考えるようになったのだろうと思う。それに結局はエジプトの高官になっているということからも、いろんなことがあったけれども結局はこれで良かった、これも神の計画だったのだという思いになっていたのだろう。
赦し
兄たちはヨセフと和解し、ヤコブをエジプトへ連れてくる。そしてゴシェンという所に住むようになった。
しかし兄たちは、ヤコブの死後不安になる。ヨセフはヤコブが生きている間は自分たちを赦したような事を言っていたが、ヤコブが死んだからには、今度こそ本当の仕返しをするのではないか、と思うようになる。兄たちが不安になるのも無理ないという気もする。そしてもう一度ヨセフにかつての咎を赦してほしいと願う。傷つけられた方よりも、傷つけた方がずっと苦しむのだ。
これを聞いたヨセフは涙を流した(50:17)。一体これはどんな涙だったのだろう。ヨセフは、わたしが神に代わることができましょうか、あながたがはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの命を救うために、今日のようにしてくださったのです、と言った。神がかつての悪を善に変えた、なのに自分がその善をまた悪に変えることなどするはずがないでしょう、ということのようだ。いろんなことがあったけれども、苦しいこともいろいろあったけれども、神がそのいろんなことを善に変えてくれた、苦しいことからも神は善へと導いてくれる、というわけだ。
全部神の計画だったのだ、だから昔のことは赦している、もう気にしなくていい、と言っているのに、それなのにずっと昔のことにこだわっている兄たちのことを憐れに思っての涙だったのかなと思う。
赦しは受け取らなければ意味がない。それを受け取らなければ解放されない。
ガラテヤ5:1 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」
私たちは神に赦されている。イエスの十字架によって赦されている。そのことを受け取るようにと神は言われている。それを拒否しているのは自分自身なのかもしれない。
私たちは案外自分を赦せないでいるような気がする。こんな失敗をした、あんな間違いをした、全然うまくできない、そうやって自分を責めることは多いけれど、なかなか自分を赦せないでいる。でも神は私たちを赦していると言っている。赦されているものとして、自由にされているものとして生きていこう。赦しって赦す気持ちになるというよりも、赦すんだと決断することなんじゃないかと思う。自分を赦し、周りを赦す、そう決断することから始まるのかもしれない。とても勇気がいることかもしれない。でもそこには自由がある。その自由を得させるためにキリストは十字架に付けられたのだ。