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礼拝メッセージより
「不条理を生きる」 2011年8月7日
聖書:創世記 41章1-16節
夢
よく夢を見る。もう何年も進級できなくて、また今年も進級できそうにない、これじゃ卒業できない、なんて夢を見ることがある。それが高校だったり大学だったりする。ある時はどうしようと思い悩んだまま目が覚めてきて、しばらく自分がどこにいるのか分からないことがあった。少しずつ頭が起きてきて、そうすると高校は卒業したんだ、大学も留年したけど一応卒業した、そうか今は牧師していて呉にいるんだ、とだんだん記憶がよみがえってきて、もう卒業の心配はしなくてもいいだ、と安心したことがあった。
しんどい時はそんなしんどい夢を見るみたい。でも聖書にあるように、神が出て来て話しをしてくれるというようなことはまだない。あったらいいなと期待する気持ちをあるけれど。まして人の夢を解くなんて才能ももちろんない。そんな特殊な能力を欲しい気持ちはすごくあるけれど、そんな能力も与えられていないらしい。すごい才能があったら鼻高々になって自慢できて、金儲けもできるんじゃないかなんて考えるけれど、そんな人間には神さまは変な能力は与えられないのかもしれない。
エジプト
ヨセフは父ヤコブから特別に可愛がられ、しかも兄や父までもが自分の前にひれ伏すというような夢を見たと言ったことから、兄たちの怒りを買って穴に落とされ、通りがかりの商人によってエジプトへ売られてしまった。彼はエジプトのファラオの宮廷の役人で、侍従長のポティファルのものとなった。
ヨセフにはいろんなものを管理する能力があったようで、ポティファルは自分の財産までもヨセフに任せるようになった。しかもヨセフは顔も美しく体つきも優れていた、と書かれている。そのためポティファルの妻はヨセフのことが気に入り、自分の床に入るようにと誘うようになってしまった。ヨセフが断っても毎日言い寄るまでになった。ある日、家に誰もいないときに妻は、今度はヨセフの着物をつかんで力づくで自分の床に入れと迫った。ヨセフは服をはぎ取られはしたがどうにか逃げた。そうすると妻は、ヘブライ人の奴隷に襲われそうになった、大声を出したら着物を残したまま逃げた、なんてことを言った。それを妻から聞いたポティファルは怒って、ヨセフを王の囚人をつなぐ監獄に入れてしまった。
ヨセフは監獄でも、色々と管理する能力を発揮して、監守長から獄中のことを任されるようになったという。牢名主というところだったのだろうか。しかし自由のない監獄にいることは結構な苦しみであり屈辱だっただろうと思う。
夢
その後、エジプト王の給仕役の長と料理役の長が主君である王に過ちを犯し、怒ったファラオは二人をヨセフがいる監獄に入れてしまった。そこで二人は同じ夜に夢を見た。けれども二人とも夢の意味が分からないでどうしたものかと悩んでいた。
給仕役の見た夢は、一本のぶどうの気が目の前に現れ、その木には三本のつるがあった。そのつるがみるみる芽を出し、花が咲き、ぶどうが熟した。ファラオの杯を手にして給仕役はぶどうを杯に絞ってファラオにささげた。それが給仕役の見た夢だった。
それを聞いたヨセフはその夢を解き明かした。三本のつるは三日である、三日たてばファラオが元の職務に復帰させてくれる、以前のようにファラオに杯をささげる役にもどる。ヨセフはそう言った。そして元のようになったらこの夢の解き明かしのことをファラオに話して、ここから出られるようにしてくれ、自分は冤罪でここに入っているんだから、ということも頼んでおいた。
料理役の長は、ヨセフが見事に夢を解き明かすのを見て、自分も夢を語った。彼の見た夢は、編んだ籠が三個自分の頭の上にあった。いちばん上の籠には料理役がファラオのために調理した料理が入っていた。しかし鳥がその籠から食べている。そんな夢だった。ヨセフはまたその夢を解き明かした。三個の籠は三日のことである、三日経てばファラオがあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木にかける、そして鳥があなたの肉をついばむ、というものだった。
そして夢にあった三日後、その日はファラオの誕生日だった。その日ヨセフが夢で解き明かしたように、給仕役の長は元の職に復帰し、料理役の長は木にかけられた。ところが給仕役の長はヨセフのことを忘れてしまったというのだ。
監獄から出られる絶好のチャンスがそこで消えてしまった。
それから二年が過ぎ、今度はファラオが夢を見た。
ナイル川のほとりに立っていると、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がってきて葦辺で草を食べ始めた。すると今度は醜いやせ細った七頭の雌牛が川から上がってきて、よく肥えた七頭の牛を全部食べてしまった、というものだった。
王はその後もう一つの夢をみた。
太ってよく実った七つの穂が、一本の茎から出ていた。するとその後から、実が入っていない干からびた七つの穂が生えてきて、太って実の入った七つの穂を呑み込んでしまった、というものだった。
王はおかしな夢を見たので心配になって、エジプト中の魔術師や賢者を集めてどういうことかと聞いた。でも誰も説明できる者がいなかった。その時、給仕役の長がヨセフのことを思い出して、牢獄にいたときに自分の夢を解き明かした者がいたということを王に告げた。
そこで王はヨセフを牢獄から呼び出して夢の話しをして、解き明かすようにと言った。ヨセフの説明は、夢は二つとも同じことであって、今後七年間の豊作があり、その後に七年間の飢饉があるということだった。ヨセフは夢の説明だけでなく、そのためにどう対策しないといけないかということまで王に言った。国中に監督官をおいて、豊作の間に食料を蓄えさせておいて、その蓄えで後の飢饉の間をしのぐようにということだった。
王も家来もヨセフの説明に感心し、ヨセフを宮廷の責任者として、エジプトのナンバー2にして国中の管理を任せるようになった。そしてエジプトの祭司の娘を妻として与え、ヨセフには二人の息子、マナセとエフライムが生まれた。
生意気な夢を見たということでエジプトへ売り飛ばされることになったヨセフだったが、その夢を解き明かすことで今度はエジプトの役人の長になった。
主が共に
聖書はヨセフが夢を解き明かしたことも、管理能力を発揮したときも、神が共にいたからだと語る。神が共にいたから夢の解き明かしもでき、人も財産もうまく管理できたのだと語る。(39:2,3,21,23)
エジプトにいるときのヨセフにはいつも神が共にいるようだ。でも神が共にいるからといって、なんでも自分の思い通りに事が運ぶというわけではない。神が共にいたが、ポティファルの妻のうそによってヨセフは監獄に入れられた。神が共にいたが、解放された給仕役の長にはしばらく忘れられてしまった。神が共にいるということと、私たちの願いどおりになんでもことが運ぶというのとは違うらしい。あらゆる不条理から守られるというわけではないらしい。無実の罪で囚われの身になることだってあるのだ。しかしそんなことがあっていいのだろうか、神が共にいるのにそんなことが許されていいのだろうかと思ってしまう。そんな神なんか信じてられるかという気にもなる。
生まれてからずっと父親に誰よりも大事にされてきたヨセフだった。自分は大事にされて当然、自分の願いは何でも叶うと思うようになっていたのではないかと思う。そしてエジプトでも最初は重用されてうまくいっていた。確かに優れた能力を持っていたのだろうが、かつての夢のように、世の中の誰もが自分の力の前にひれ伏すというような思いになっていたとしても不思議ではない。
しかし彼は無実の罪で牢獄に入れられるという不条理を味わうことになる。エジプトへ売られたのが17歳で、ファラオの前に立ったのが30歳だということなので結構長い間牢獄にいたのだろう。ヨセフはそこで初めて自分の人生を振り返ったのではないかと思う。自分がつらい仕打ちにあうことで、父親からあまり大事にされてこなかったという不条理を味わってきている兄たちのことも初めて考えるようになったのではないか、そして人はそんないろんな不条理、納得できないような苦しみや悲しみと共に生きていくのだということをじっくりと考える時だったのではないかと想像する。
詩編105:16-19
105:16 主はこの地に飢饉を呼び/パンの備えをことごとく絶やされたが
105:17 あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。
105:18 主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ/首に鉄の枷をはめることを許された
105:19 主の仰せが彼を火で練り清め/御言葉が実現するときまで。
詩編は、ヨセフが囚われの身となったのは神が彼を火で練り清めるためだったと語る。練り清められる方はかなりの苦しみだったのだろうが、神は神の計画を実行するためにヨセフを鍛えた、その後エジプトの全てを管理し、周辺の諸国の人たちを飢饉から救うための務めを果たすにふさわしい人間になるようにと鍛えたということらしい。
主が共にいるということは、そんな風に神の計画の中に生かされているということなのだ。主が共にいるというのは、全てが順風満帆で何でも願いどおりに行くということではなくて、ただ神の計画の中に生きているということなのだろう。ヨセフは神の備えた時までそこで待たされた。待つしかないわけだが、苦しみを通して少しずつ磨かれていたのだ。磨かれたからこそ、夢の意味を説明するという賜物も生かすことができるようになったのだろう。
私たちも、どうしてこんな苦しいことになるのかと思うことがいっぱいある。何のためなのかさっぱり分からないこともある。でもそれも神の計画の中にあることなのだ。痛みを経験することで初めて人の痛みを想像できる、悲しみを経験することで初めて優しくなれるのも事実だ。
苦しい時は神が誰かのために私たちを鍛えているということかもしれない。私たちが光り輝くように磨いているときなのかもしれない。苦しみや悲しみは私たちが優しさやいたわりを持つようになるためのものなのだろう。
神が私たちに願っているのは、私たちが自分の能力や知識をひけらかしたり、俺たちは本当の神を知っているのだと言って自分の信仰を自慢するなんてことでもなく、隣人をいわたり支えて生きることなんじゃないかと思う。神が私たちを大事に思ってくれているように、互いに大事にし合って生きること、それこそが神が私たちに望んでいることなんじゃないかと思う。そしてそんな優しさやいたわり、それこそが一番の賜物何じゃないかと思う。そんな賜物は苦しみを耐え忍んだところにこそ与えられるものなんじゃないかと思う。