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礼拝メッセージより
「見えない計画」 2011年8月21日
聖書:出エジプト記 1章15節-2章10節
モーセ
エジプトへ売られたヨセフは、エジプトの王ファラオの見た夢を解いて飢饉を乗り切った。持ち前の才能もあったのであろうがエジプトの高官となり王から国のことを任されるようになった。結局ヨセフはエジプトだけではなく周辺諸国の人たちも救うことになったようだ。そしてその飢饉をきっかけにヨセフの父や兄たちと再会し、彼らもエジプトへ移住することになった。
エジプトへ移住したイスラエルの人たちはやがて数も増えてきた。そしてヨセフのことを知らない王が国を支配するようになると、イスラエル人は協力になった、やがては敵になるかもしれない、ということで重労働を課して虐待するようになった。それでもイスラエル人はどんどん増えてしまい、余計に重労働をさせるようになった。
そこで王は助産婦に、ヘブライ人が男の子を産むときは殺してしまえという命令を出したというわけだ。それでも助産婦達は、ヘブライ人は自分たちが行く前に産んでしまうと言って殺さなかったので、イスラエルの民はますます増えたなんて書かれている。
そこでファラオは今度は全国民に、生まれた男の子はみんなナイル川に放り込め、と命令した。全国民への命令ということだけれど、エジプト人の子供を殺せという訳がないので、これはヘブライ人の男の子はナイル川へ放り込めということのようだ。
モーセが産まれたのはそんな風にイスラエル人にとっては大変な時代であった。イスラエル人の男として生まれることが命の危険にさらされるという時代だった。モーセにしてみればなにもこんな時代に生まれなくても、というようなことだっただろう。
やがてイスラエル人を脱出させるための指導者となっていくそのモーセはそんな大変な時代に生まれた。モーセは、ヤコブの息子レビの子孫としてレビ人の夫婦のもとに生まれた。生後三ヶ月までは親元にいることができた。男の子はナイル川に流さないといけないというエジプト王の命令に背いて、三ヶ月はどうにか隠していたのだろう。しかしとうとう隠しきれなくなった親はモーセを川に流すことにした。
そのまま死んでしまう運命にあったはずだったのに、たまたまそのモーセを水浴びに来ていた王女が発見した。彼女はどういうわけかモーセを自分の子供として育てることにしたというのだ。王の命令で捨てられたヘブライ人の子供を自分の子どもにしてしまうことになる。なぜなんだろうか。それほどかわいかったのだろうか。王女は川を流れてきたことから王の命令によって流された子供であると分かっている。それでも敢えてその子を助け自分の子供にしようとしたということは、王女にとっては子供を川に放り込めと言う王の命令が気に入らなかったんじゃないかと思う。あるいはそんな命令を出した王に対するあてつけなのかもしれないとも思う。
モーセにとってはこの王女に拾われたと言うことがとても幸運だった。それが神の計画だったということなんだろうか。
ちょうどそこへモーセの姉が登場する。そして乳母を呼んできましょうか、なんてことをいう。それもヘブライ人の乳母を、なんてことをいう。その策略は無事に功をそうして、その日のうちにモーセは母親の元へ帰ることになる。しかも手当てまでつくというおまけつきだ。自分の子どもの世話をするのに王女から手当てをもらう、なんていううまい話があっていいのか、と思うほどだ。災い転じて福となす、って感じかな。
モーシェ
モーセの名前は王女がつけた。引き上げた、というマーシャーという言葉からつけられた。ヘブライ語ではモーセというよりも、モーシェという音に近いそうだ。
計らい
王がヘブライ人を驚異に思うようになったことから、ヘブライ人の男の子は殺されることとなった。きっと殺された子どもも数多くいたことだろう。時の権力者によって、その権力を守ろうとすることによって犠牲となる者がいた。今でも変わらないようだ。何とも理不尽なコトだ。この世はそんな理不尽が渦巻いているといえるのかもしれない。
神がいるならどうしてそんなことが起こるのか、というように思うこともある。悪い者がいい思いをして、いい生活をしている。そんなことがあっていいのかと思う。悪巧みに長けている者がいい思いをする世の中なんてのは間違っている。そんなことをどうして神は許すのか、と思う。
何とも理不尽な世の中である。しかしそんな理不尽な世の中に神は介入してきた。神が見放したからこういう世の中になっているのではなく、こんな世の中にも神は介入している、理不尽な目にあって苦しんでいる者を神はほったらかしにするようなことはない、モーセの誕生の物語はそれを語っているようだ。
女性
生まれたばかりのモーセを救ったのは女性たちだ。女性という社会的には比較的無力な者が神の計画の中心人物となっている。彼らを通して神は働かれる。
男は力ずくで自分の思い通りにしようとする。自分が力を持てば何でも思うようになると思っている。王がまさにそうだ。しかし神は無力な者を通して働かれる。そこで奇跡を起こす。奇跡といっても、神懸かり的なことを起こすのではない。一つ一つの出来事はたまたま起こったに過ぎないようなコトだ。たまたま王女がやってきて、たまたまモーセを発見して、たまたま乳母の話が聞き入れられて、そんなたまたまの積み重ねのようなところでモーセは救われ、イスラエルは救われていった。神はそんな仕方で私たちに関わっておられるのかもしれない。私たちにとっては当たり前のこと、特別なことではない、誰にでも出来ること、そんなことを通して神は誰かを救い出そうとしているのかもしれない。
危機
イスラエル存亡の危機は無力な女性を通して回避されるコトになった。滅亡へと向かっていくと思われていた時、しかし神はそこで計画を持って働かれていた。表だって誰の目にも見えるような仕方ではない、けれども神は見えないところで働かれていた。
いかにも不条理な世の中に私たちも生きている。どうして私がこんなに苦しまないといけないのか、どうして私がこんな病気になるのか、どうして私がこんな大変な目に遭うのか、そう思うことも多い。神がどこにいるのか、どこでどう働かれているのか、そんな思いになることが多い。
でも神は見えないところに計画を持っていた。一人の赤ん坊を通してイスラエル民族を救い出すという大きな計画を持っていた。そしていろんな人たちがその計画に知らない内に関わっていた。一人の赤ん坊の命を守ることを通して、神のその見えない計画に関わっていった。それはそれぞれの人たちがそれぞれにできることをやっていった結果だった。一人一人がしたことは大したことではなかった。でもそれぞれが自分の出来ることをやっていった積み重ねがモーセの命を救い、イスラエル民族を救い出すことへとつながっていった。
神は権力をもっていない女性の働きを通して神の計画を実行していったように、無力な私たちの働きを通して、大きな働きを計画されているかもしれない。無力な私達を通して神は世界を変えるような偉大な計画を持たれているのかもしれない。そのためには、私たちそれぞれができることをやっていくことだ。
こんなことしたって何の意味もない、何の効果もないと思うことも多いし、また神の計画もなかなか見えない。そして自分は何の役にもたたない、何の能力もないと思うことは自分自身を一番苦しめることだと思う。
でも神は私たちに対しても、お前達それぞれに計画を持っている、お前達を通して私は働くのだ、神はそう言っているのではないか。
それぞれに自分は何をしていけばいいのか、何ができるか、祈りつつ聞いていく、そして自分を献げていくことが大事なんだろう。そんな私たちの働きを神がどう活かしてくれるのか、楽しみにしつつ神に従っていけたらいいなと思う。