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礼拝メッセージより
「再出発」 2011年7月31日
聖書:創世記 32章23-33節
不安
父のイサクと兄のエサウを騙して祝福を横取りしたヤコブは、母リベカの言うように母の兄、ヤコブから見るとおじとなるラバンの所へ逃げていくことになった。表向きは妻を迎えるためということだったが、実際は祝福をだまし取られたことで起こっている兄のエサウに殺されかねないために遠くへ逃げ延びていくということだった。
そして逃げる途中に、神から「あなたの子孫は砂粒のように多くなる、わたしはあなたと共にいる、あなたがどこへ行ってもわたしはあなたを守り、必ずこの地に連れ帰る」と告げられる夢を見たことが28章に書かれている。
祝福を横取りするという作戦はうまくいったけれども、そのために兄の恨みを買ってしまい、母の故郷ではあるけれども見知らぬ土地に逃げていかないといけないという不安を抱えていた時に見た夢だったのでヤコブはとてもうれしくなったようだ。そこで記念碑を建てて、神がずっと守ってくれて無事に帰れるなら自分に与えられるものの十分の一をささげます、と約束している。
しかしこの地に連れ帰る、という神の約束から実際に帰るまでは20年かかった。父と兄をだまして祝福を横取りしたヤコブだったけれど、逃げていった先では、おじのラバンに騙されてしまう。ラバンの娘の妹を好きになり、妹と結婚するために7年間働くことになる。ところが7年後に好きではなかった姉の方と先に結婚させられてしまうことになる。そして妹と結婚してもいいが、もう7年働けと言われて、そのために結局は20年間も働かされる羽目になる。
そんな調子で何事もおじのラバンにいいように使われてきたヤコブだったが、神から故郷へ帰れと告げられたと聖書には書かれている。実際はそれだけじゃなくて、我慢の限界がやってきたということでもあるようだ。すったもんだした挙げ句逃げるようにおじの元から出て来たヤコブだった。
しかし故郷へ帰るのはいいけれども、そこには兄のエサウがいるのだ。かつて祝福をだまし取った相手、そのために命さえ狙われそうな勢いだった兄がいるのだ。おじのところにこれ以上いるのはもうこりごり、でもじゃあ故郷へ帰ろうかと簡単に思えない状況だ。きっとヤコブはさんざん迷って迷って、故郷へ向かう決心をしたのだと思う。
それは兄のエサウと会う決心でもあった。20年ぶりの再会だ。ヤコブは不安で不安でたまらない。兄がどんな気持ちでいるのかまるでわからない。
32章の初めの所では、ヤコブは先に使いを出してエサウの気持ちを確かめようとする。その使いが言うには、エサウはヤコブを迎えるために400人の者を引き連れてこちらに向かっているということだった。迎えるためと言いつつ、本当は自分に攻撃をしかけてくるのではないかと不安でたまらない。そこで家の者も家畜も二つに分けて、一つを攻撃されても半分は残るようにする。
故郷へ帰るしかない、しかしそこには自分がだましたエサウがいる、不安で不安でたまらないヤコブは必死に祈った。32章10節からの所にその祈りが書かれている。「兄エサウの手から救って下さい、わたしは兄が恐ろしい」と祈っている。
そしてその夜ヤコブは兄への贈り物を選んだ。それを三つの群れに分けて、召使いたちに、エサウに会ったら、これはヤコブからの贈り物です、ヤコブも後から来ますと言いなさい、と言って先に行かせた。
ヤボク
その夜、ヤボクの渡しを渡ったというのが今日の箇所だ。
ここを見るとヤコブは家族と共に渡った後一人残って何ものかと格闘している。これは一体誰なんだろうか。神の使いなのだろうか。そんな正体不明のものと夜が明けるまで格闘した。ヤコブは神と格闘したと思っているようだが、腿の関節をはずされてしまっても、祝福してくれるまでは離さないと言って格闘する。そしてヤコブではなくこれからはイスラエルと呼ばれる、お前は神と人と闘って勝ったからだと言われる。
ヤコブという名前はかかとをつかむ者という意味で、イスラエルというのは神が戦うという意味だそうだ。
ヤコブは産まれるときから兄のかかとをつかんで産まれてきたと書かれているように、ずっと自分の力でいろんなものを手に入れてきたようだ。長子の権利も祝福も策略によって手に入れてきた。そんなヤコブに対して、ヤコブの相手はこれからはイスラエルと呼ばれると言われると言った。神が戦う、という風に呼ばれるというのだ。神と戦うではなく、神が戦うなのだ。それまで自分の力と策略によって戦っているヤコブに対して、これからは神が戦うんだと宣言されているようだ。
しかしヤコブの実体はやはり自分の力に頼ろうとしている。神に対しても祝福してくれるまで離さないという調子は変わらない。ここでのヤコブは徹夜で神と格闘して祝福を勝ちとったという、立派な祈りの人というよりも、祝福も安心も相変わらず自分の力で手に入れようとしてもがいている、かかとをつかんで離さないヤコブの姿なのではないかと思う。神に頼り切れない、任せきれないヤコブの姿がそこにあるような気がする。
それでもそのヤコブがこれからイスラエル、神が戦う、と呼ばれると言うのだ。実体はまだまだそうではない、自分が戦っているヤコブだ。しかしこれからは神が戦うのだ、イスラエルなのだ、と神が宣言しているということなんだろうと思う。
祝福
ヤコブはその後も駄目親父振りを発揮している。でもそのヤコブが神の祝福を受け継いでいっている。祝福とは、それを与えられるにふさわしい人間に与えられるのではなく、神がそう決めた人間に与えられるようだ。神の勝手な決意なのだろう。私たちは自分がふさわしいのかどうかなんてことを思いがちだけど、そんなことなどどこ吹く風で、神は祝福するといったらするんだといわんばかりに祝福しているようだ。
神の恵みとはそんなものなのだろう。与えるといったら与えるのだ、ぶちぶい言ってないでしっかり受け取りなさいと言われているのではないか。自分がいいとか悪いとか、信仰が深いとか浅いとか、そんな風に自分のことばかりみるのじゃなく、私を見なさい、私の思いを知りなさい、私がどれほどおまえのことを思っているのか、それを知りなさい、と言われているのではないか。自分の力に頼るのではなく、私の力に頼りなさい、そう言われているのではないか。