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礼拝メッセージより
「共にいる神」 2011年7月24日
聖書:創世記 28章10-22節
前段
ヤコブの父はイサク、イサクの父はアブラハム。そしてヤコブには双子の兄エサウがいた。父であるイサクは兄のエサウを愛し、母リベカは弟のヤコブを愛していたというようないびつな家族関係があった。そんな関係もあったのだろう、ヤコブは創世記25章によるとエサウが腹が減ってたまらないと言うときに煮物と引き換えに長子の権利を奪ったと書かれている。
またヤコブは、27章ではイサクが兄のエサウを祝福しようとしていると知った母リベカと共謀して、その祝福をだまし取ってしまった。祝福を盗まれたエサウはヤコブを憎み、父が死んだら弟のヤコブを殺してやると決意する。それを知った母リベカはヤコブを、自分の兄ラバンのところへ逃がすことにする。
27章46節でリベカはイサク、「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません。」と語っている。そして28章ではそれを聞いたイサクはヤコブに、ヘト人の娘を妻にしてはいけない、ラバンおじさんのところへ言って、そこの娘を中から相手を見つけなさい、と言ったと書かれている。
本当は兄のエサウから逃げるためにおじさんのところへ行くわけだけれども、表向きはヤコブの妻を親戚から捜すためということになった。もしかしたらそのためにリベカはヘト人の娘は嫌いだ、エサウの妻は嫌いだとイサクに吹聴したのではないかという気がする。
そんなことからヤコブは家を出なければならなくなった。そして母の兄、ヤコブから見るとおじさんであるラバンのいるハランへと向かう。ヤコブのいたベエル・シェバはカナンの南の方にあるそうで、ハランまでは800km位あるそうだ。呉から東京までいくような感じだろうか。
長子の権利も、父イサクからの祝福も、自分の狙ったものを手に入れたヤコブだった。けれどもこの時は、家族も財産も全部なくして、命からがら逃げてきた出てきたといったような状態だった。将来どうなるのかという大きな不安をも抱えて、荒野をひとり旅をしている。
いったいどんな気持ちだったのだろうか。祝福してもらったはずなのにこの有り様は一体何なのか、これのどこが祝福なのか、そんなことも考えたのではないか。父と兄をだましたことのつけを払わされているのだと思って後悔していたかもしれない。そのために自分の人生がすっかり狂ってしまったと思っていたのではないか。
天の門
そんなヤコブは石の枕をして眠っていたという。夜になると真っ暗闇になる荒れ野で寝ていたのだろう。いつ獣に襲われるかもしれないという恐怖も抱えて寝ていたに違いない。
しかしそんな時にヤコブは夢を見る。天まで達する階段、はしごという訳もあるみたいだが、その階段が天から地に向かって伸びていてそこを天使が上ったり下ったりしているというものだった。そして神の祝福の声を聞く。
自分のしでかしたことで家族もなくし、なにもかもなくしてひとりぼっちになってしまったヤコブに神は祝福の言葉を語りかける。
ヤコブがここで頼ることができるのはこの神の約束だけだったのだろう。ヤコブが持っているものは神のこの祝福の言葉、約束の言葉だけだった。
しかしそれは何もかもなくしてひとりぼっちのヤコブにとっては何ものにも代え難いうれしい言葉だったようだ。たかが夢じゃないかと言われればその通りではあるけれど、その夢によって彼は神の祝福を知った、あるいは思い出したということだった。そしてそれはヤコブを一気に元気づけたようだ。
ヤコブは、まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった、これは神の家だ、ここは天の門だ、なんて言っている。
主がここにいる、神がここにいる、自分のいるこのところにいる、ヤコブはそのことに気が付いた。家族をだまして祝福を奪い取ったことで反対に何もかもなくし、ひとりぼっちになってしまったと思っていた。けれどもそこにも神がいてくれた、自分のところにも神が来てくれていた、天の門を開いて自分を神の家に招き入れてくれた、そんな思いになったようだ。
十分の一
ヤコブはよほど嬉しかったようで、枕にしていた石を記念碑としたり、自分に与えられたものの十分の一をささげます、なんてことを言う。しかし、神が共にいて必要な物を与えて無事に家に帰らせてくれたら、十分の一を献げます、なんて随分勝手な誓願だなという気もするけれど。これじゃあ取引しているようなものだなと思う。十分の一を献げますから守って下さい、と言うのが本当じゃないのかと思うけど。
しかし家族をだまして祝福さえも奪い取った男だったが、こんどは自分から献げると言っている。
希望
ヤコブはそれほどに喜んだ。
しかし彼にその時与えられたのは神の言葉、神の約束だけなのだ。実際のものはまだまだ何も手にしていない。財産も妻も子もまだ何も持っていない。しかし彼には神の言葉だけで充分だというほどに喜んでいる。
ヤコブにとって嬉しかったのは、この土地を与えるとか子孫を与えるという約束よりも、もちろんそれもうれしかっただろうけれども、それよりも神が自分と共にいる、神が自分を見捨てていない、神が自分に語りかけてくれている、そのこと自体が嬉しかったのだろうと思う。
多くの財産や家族を与えられることも嬉しいことではあるが、それよりも何よりも神が自分と共にいること、神が自分のことを見捨ててはいないこと、自分のことをしっかりと見守ってくれていること、そのことこそがヤコブにとっての喜びだったのだろう。
きっとそれからのヤコブの歩みは違っただろう。何も持ってない状況は変わってはいない。ひとりぼっちである状況も変わってはいない。でもヤコブの心の中には神が共にいるという新しい希望が生まれ、そこから力がわいてきたことだろう。
その後ヤコブが聖人君子になったというわけでもない。大勢のこどもを持つようになるが、自分が本当に好きだった妻のこどもだけを特別に可愛がるようなことをする。家族をだました人間が、また家族崩壊となるような原因を作ってしまう。祝福を約束されたヤコブであるが、相変わらず失敗もするし罪も犯す。この時からどんな困難にも完全と立ち向かう人間になった訳ではない。ヤコブは後々故郷に帰りエサウと再会することになるけれども、その時にもやはり心配で心配で眠れない夜を過ごしたようだ。不安も恐れもなくなったわけではない。
ヤコブはやっぱりヤコブだ。本質は何も変わってはいない。でもそんなヤコブを神は守り続ける。ずっと支え続ける。ヤコブが立派な人間になったから神が共にいるのではなく、共にいると神が決意したから共にいるのだろう。神がそう決意したから、相変わらず姑息な手段を執ろうとする、不安と恐れがいっぱいである、そんなヤコブと共にいて守るのだ。
ヤコブにとって、不安な将来に向かって一人で立ち向かうのではなく、神が共にいてくれることを知ること、それはどんなにか大きな励みになったことだろう。
私たちも自分のしでかした過去のいろんな失敗や罪のために苦しい思いをしながら生きている。人を傷つけたことで一番苦しむのは傷つけられた者よりも傷つけた側であることも多い。そんないろんな心の傷を刻みながら私たちは生きている。あの時ああしておけば、ああしなかったらと後悔することが山のようにあるのが私たちの人生だ。そしてそんなことを何度も繰り返し、全く成長しない私たちだ。
けれどもそんな私たちにも神は、あなたと共にいる、いつもあなたと共にいる、あなたを決して見捨てないと語りかけてくれている。だからこそ私たちもしっかりと生きることができる。やっぱり風は吹くし雨も降るような時もある。けれども神はどんな時でも私たちをしっかりと支えてくれている。