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礼拝メッセージより
「長子の権利」 2011年7月17日
聖書:創世記 25章27-34節
双子
アブラハムの息子イサクがリベカと結婚した時40才だった。しかしアブラハムとサラの夫婦にになかなか子供ができなかったように、イサクとリベカの夫婦にもなかなか子供ができなかった。子供が生まれたのはイサクが60才の時だったと書かれている。20年目にしてやっと産まれてきた。
そしてその子供は双子で、胎内にいるときに押し合っていたため、リベカは心配になり主のみ心を尋ねると、「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で別れ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」と告げられ、誕生の時には弟が兄のかかとをつかんでいたと書かれている。本当かいなと思うけれども、双子の生涯を暗示しているかのようだ。
やがて二人が成長してからの逸話が今日の箇所だ。
「兄のエサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。」
兄のエサウは野の獣を捕まえる仕事をして、ヤコブはテントの周りでということは畑仕事をしていたのではないかと思う。ヤコブは穏やかな人と書かれているが、違う訳では「非のうちどころのない人」と訳されているそうだ。非のうちどころのない人というと完全無欠な素晴らしい人のように聞こえるけれども、皮肉っているらしくて、抜け目のない計算高いというような意味でもあると何かに書いてあった。落ち着いていて淡々と仕事をこなしていく、けれども冷淡な所もある人物だったのだろう。
ところで、父イサクはエサウを愛したと書かれている。その理由が狩りの獲物が好物だったから、つまり肉が好きだったから、その肉を取ってきてくれるエサウが好きだったというわけだ。一方母リベカはヤコブを愛したと書かれているがその理由は書かれていない。主から兄が弟に仕える、と言われたことから弟を愛したのではないかという人もいるけれども、どちらも自分が産んだ子供であり、ただ落ち着いている息子の方が性に合っていたということなんじゃないかと思う。
最近でも、双子で産まれてもあなたはお兄ちゃんだから、あなたは弟だからという風に育てると聞いたことがある。折角一緒に産まれてきたんだから上も下もなく育てればいいんじゃないかと思ったりするけれどそれじゃいけないんだろうか。当時は長子は財産を2倍相続できるなんてことになっていたそうで、上か下かは相当な違いがあったようだ。しかも上の子は父親が愛し、下の子は母親が愛するなんていういびつな親子関係もからんでいる。
そして今日のある日がやってくる。ヤコブが煮物をしているときにエサウが疲れ切って帰ってきた。エサウはその煮物を食べさせてくれと頼むが、ヤコブは長子の権利を譲ってくれといい、エサウがそれを了解して食べたという話しだ。
双子なのにたまたま少し早く産まれただけで長子となり多くの財産を相続するのか、しかも父親は兄を愛して自分を愛してくれない、ヤコブはそんな思いをずっと持ち続けていたのではないかと思う。
たまたまこの日都合良く、煮物をしているときに疲れた兄が帰ってきたのか、あるいは帰ってくる頃を見計らって煮物をしていたのかそれは分からないけれど、ヤコブにとってはまさに絶好の機会となり、まんまと長子の権利を手に入れることができた。
なんだか策を弄して長子の権利を奪い取ったヤコブの方が悪いような気もするわけですが、創世記はヤコブのことには何も触れず、「こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。」と、エサウの方に過失があるようなことが書いてある。
エサウの何がいけなかったんだろうか。長子の権利というのはたまたま一番最初の子供として産まれてきたということで与えられたものだ。それをいとも簡単に譲り渡してしまったことがいけなかったのか、煮物との引き換えにしてしまったのがいけなかったのか。
しかし死ぬ程に空腹だったら何をさしおいても腹を満たしたいと思っても仕方ない気がする。2倍の財産を相続できるとしても、それは父親が死んだ後のことであって、ずっと先の話しである。それよりも目の前にある煮物を、という気持ちはよく分かる。そう思ったとしても不思議ではない。
それよりもヤコブの方がよっぽどあくどいじゃないかという気がする。確かにエサウが長子の権利を軽んじたのは事実だし否定はしないけど。でもヤコブは悪くないと言ってるわけでもないか。しかしヤコブも長子の権利を煮物と引き換えにできる程度の物と考えているわけで、結構軽んじている気がする。
誰かが、中東の方では物を盗まれるなと教えると書いてあった。日本では普通物を盗むなと教えるけれど、中東ではそれよりも盗まれるなと教えると。そういう文化なので盗むことよりも盗まれる方を問題にするのかもしれないけれど。
この後父イサクが死を前にして長子であるエサウを祝福しようとするのを、リベカとヤコブが共謀してその祝福を横取りしてしまうなんて話しも出てくる。とんでもない家族だと思う。ほとんど家族崩壊している。そしてそのことからヤコブは兄のエサウから命からがら逃げないといけなくなり、逃亡先でも苦労する羽目に陥ることになる。
何が悪かったのだろうか。長子の権利を大事にしなかったことなんだろうか。長子の権利というものがそれほど大事なものなんだろうか。それは結局はどれほどの財産を自分が持つかということになるような気がする。そうすると長子の権利というのは命がけで守らないといけないような大事な物ではないような気がする。
実は長子の権利を大事にしなかたことが悪いことだったというよりも、それを相手から奪おうとする、そんな関係にあることこそが悪いことだったんじゃないかと思う。そんな兄弟関係、そんな家族関係にあることこそが悪いことだったんじゃないか、そしてその結果が家族崩壊というか家族が離ればなれになるということにつながっていったわけだ。
聖書教育にヨハネの第一の手紙3:17-18が書いてあった。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しないものがあれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子らよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」。
いろんなものを奪い合ったり、あるいはお互いの正しさをぶつけ合ったり、権利を主張し合ったりってことが多い。何か問題が起こると、お前の方が悪い、お前のせいだ、お前の方が間違っている、なんてことになりがちだ。
空腹で疲れて帰ってきた者をいたわることもない、いたわれることもない、そんな兄弟関係になってしまっていること自体がもうすでにおかしなことなんだろうと思う。
ところが神は後々自分のことを、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だと言う。
長子の権利を煮物と引き換えに奪う、後々祝福をもだまし取ったヤコブだったが、神はそのヤコブの神だというのだ。一旦決めたら絶対引き下がらないというような感じがする。徹底的にこいつの神であり続ける、とでもいうような神の決意みたいなもののような気がする。間違いを犯す、おかしなことをする、ひどいこともする、失敗もする、そんないろんなことがあろうと、たとえどんなことがあろうと、こいつの神であり続けるのだ、と神は言っているような気がする。
神は私たちに対してもそう言われているのだろう。お前がどうであろうと、何があろうと、私はお前の神であり続ける、絶対に離れはしない、そう言われているのではないか。