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礼拝メッセージより
「契約の虹」 2011年5月29日
聖書:創世記 9章8-17節
洪水
人間の堕落を見かねた神は地上に洪水を起こして地上の一切のものを滅ぼすことにしたことが6章位から書かれている。ただノアの造った箱舟に乗ったものだけは助かった。
40日間雨が降り続き、洪水が起き、水が引くまでノアは1年近く箱舟の中にいることになる。
産めよ、増えよ、地に満ちよ。
渇いた土地に出てきたノア達に向かって、神は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という天地創造の時に語った言葉を語る。それは人を祝福する言葉だ。
人は最初から神に逆らってばかり、神の命令に背いてばかりである。神が人を造ったのだからそんな出来損ないは全部無くしてしまった方がよっぽど早い話だと思う。しかし神はそうしない。全部滅ぼそうとしつつ、ノアの家族は残す。
契約
そしてすべての生き物と契約する。それは、もう二度と洪水を起こして地を滅ぼすことはしない、というものだった。そのしるしは雲の中に虹をおくことである、という。
契約とは言っても神からの一方的な契約である。というか神の勝手な宣言という感じがする。契約というのは両者が合意して結ぶものと思うけれど、これは神の勝手な言い分だけだ。神は地を滅ぼし尽くすことはしないというが、それに対して地に住むものが了解したわけでもない。またすべき条件も何もない。これこれこういう悪いことをしなければとか、こういう風な良いことをすれば、というような条件が何もない。ただ、もう二度と洪水は起こさない、地を滅ぼし尽くすことはない、というのだ。ということは何が起ころうと、地上の者がどんな風になろうと、洪水は起こさない、という神の宣言というか決意みたいなものだと思う。
つまり人間がどれほど悪い者であっても、罪深い者となっても、洪水を起こして全部ほろぼすような事はない、ということだ。
小さい頃から何かまずいことが起こると、ばちが当たったんだとか、ばちが当たるから悪いことをするなと言われてきた。何となく神さまは人間が何か悪いことをしないかと見張っていて、悪いことをするとばちをあてるのではないか、というような気持ちがある。
でも神は私たちが罪を犯すかどうかを見張ってそれを懲らしめようと待ち構えている訳ではないようだ。罪を見つけたらすぐに罰してやろうとしている訳ではないらしい。そうではなく、神は私たちの罪を赦そうとしているのだ。罪の罰を私たちが受ける必要がないようにしたのだ。究極の赦しは、私たちの罰をイエス・キリストが受けることで、十字架で死ぬことで、私たちの罪を帳消しにしてしまったことだ。そういう風にして私たちを赦すことにしたのだ。
悪い人間を、罪深い人間を滅ぼすという方法ではなく、その罪をイエス・キリストが精算する、イエス・キリストがその罰を全部負うという方法をとったのだ。
人間を滅ぼすことはしない、といった神は、人間をそういう風にして赦すことにしたのだ。
虹
神は契約のしるしに虹をおくという。
虹とは弓矢の弓という意味も持っている言葉だそうだ。英語では虹のことをrainbow という。これも rain とbow を別々に訳すと雨の弓になる。武器となるその弓をおく、ということは手にその弓を、武器を持たない、というふうに考えることもできるそうだ。雨の中に虹が現れるとき、それは神が弓を手放しているというしるしという風にも考えることができる。神が私たちに向かって弓を引いてはいない、私たちの罪を見つけて矢を放とうとしてはいない、というしるしでもあるということだろう。
変化
洪水の後、やはり人間は罪を犯し続ける。ノアも直後に酔っぱらって裸で寝ていたと書かれている。その後の人間たちを見ても、洪水の後になっても立派な人間ばかりになったわけではない。相変わらず悪いことを考える罪人ばかりである。しかし神はその人間をもう滅ぼすようなことはしないというのだ。人間側は本質的に何にも変わりがないようだ。相変わらず神に逆らい罪を犯し続けている。しかし神はもう滅ぼさないという風に変わった。神の方が変わった。一度は洪水を起こしたが、もう二度と起こさないというのだ。何があろうと起こさないというのだ。
「6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」と言っていた神が、今度は「8:21人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」と変わっている。
人が悪いことを考えることは変わってはいない。しかしその人に対する神の思いは全く変わっている。神ってのはどこかに鎮座ましまして全く動かないもののようなイメージがあるが、聖書の神はそうではないらしい。
神の言葉を聞かず反逆する者に対して、遙か彼方へ追い出してしまうというような仕方ではなく、逆に神の方からどんどん人に近づいていくという仕方で接していくことにしたかのようだ。
関心
神は天地を作り人を造った。しかし人は神の言葉に従わずエデンの園から追い出されてしまう。しかしその人のところへ神が出てきてまた関わっている。そこでまた神の言葉に逆らっても、またその逆らうものに関わっていく。全部滅ぼしてしまえばすっきりすると思うのにそれもしないでやっぱり関わっていく。人の悪は結局はなくならない、罪はなくならない、神は結局は人のその罪を赦すことにしたわけだ。
いつまでたっても相変わらず自分の言葉に従わない罪深い人間のために救いを用意する。そうまでして神は人に関わり続けている。これからはずっと人間の味方になろうとしているようだ。
こんな話を聞いたことがある。
高校生だったか二人の若者が盗みをした。誘われてついていった方の親はそれを聞いて、やっぱりしたか、いつかお前はそんなことをするだろうと思っていた、と言った。もう一人の主犯格の親は、お前は本当はそんなことをする人間ではない、と言うようなことを言ったそうだ。やがて主犯格の若者は盗みをするようなことはなくなり、やっぱりといわれた若者は犯罪を犯し刑務所に行くようになったそうだ。信じた通りに子どもは育つ、と聞いたことがあるけれど、どうもそれは本当らしい。
お前はそうなのだ、といわれることで実際にそうなってくるらしい。お前は泥棒になる思っていたと言われることで泥棒になり、泥棒になるはずがないと言われることでならなくなるような面がある。
人間は、お前が大事だと言われることで、そう扱われることで人は大事なものとなってくるらしい。自分の大事さは他の者から大事にされることで生まれてくるようだ。
神は人の罪を責め糾弾すること、罰を負わすことをしないと決めたという。そうではなく、お前を罰しない、罰はキリストが負う、そうやってお前を赦す、お前は私にとって大事なのだ、と言う。
お前は大事な私の民なのだ、神の民なのだ、だから神の民らしく生きなさい、と神は私たちにも言われている。あなた達には罪も悪もある、しかしその罪をキリストにおいて赦す、だから安心して私と共に生きなさい、私の言葉を聞いて生きなさい、神はそう言われている。