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礼拝メッセージより
「負いきれない罪」 2011年5月22日
聖書:創世記 4章1-16節
献げ物
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となったという。二人は共に神に献げ物をしたという。主のもとに持ってきたということは、神はアダムとエバをエデンの園から追い出したのに、その神自身がエデンの外にいる人間のところへと出てきたということだろうか。悪いコトしたから出て行け、と言っておいて、放っておけなくて心配になって後から自分もそこへ出ていくようなものなのか。
それはさておき、二人とも主に献げ物を持ってきた。カインは土の実りを献げ物とした。アベルは羊の群の中から肥えた初子を献げ物にしたという。
主はアベルの献げ物には目を留めたのに、カインの献げ物には目を留めなかったというのだ。なんというひどいことをするのだろうと思う。いったい何なのか。なんでそんな差別をするのだと思ってしまう。
カインは激しく怒って顔を伏せたという。そりゃ怒るよ。せっかく献げ物を持ってきたのに知らん顔をされたら怒る。
なんで神がカインの献げ物に目を留めなかったのかということはわからない。理由も書いてない。アベルは肥えた初子だったけど、カインは良い物じゃなかったからじゃないか、なんていう説明を聞くこともある。新約聖書のヘブライ人への手紙11:4には、「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました」と書かれてはいる。けれどもそれも一つの想像に過ぎないし、少なくともそうだとは聖書にも書いてない。あるいは、申命記の7:7には、なぜイスラエルの民が神に選ばれたのかという理由が書かれている。そこには「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と書かれている。神が一番小さく弱い者を選ぶということは他にも出てくるけれど、そういうことだったかもわからない。或いは神はいつも弟の方を大事にするなんていう節もあるけれど。兎に角理由はここには出てこないのだ。神のみぞ知る、ってとこだ。人間に解ることはただ神がそうしたのだ、ということだけだ。人間にはその理由はわからない。
カインにもその理由が解らなかった。理由が解らないからこそカインは怒ったに違いない。理由が解っていたなら、例えば弟は一番に良い物をささげたのに自分は一番ではないものをささげたからだ、という理由ならばカインだって納得出来ただろう。納得できる理由が見あたらなかった、なのに神は自分の献げ物には目を留めず、弟の献げ物にだけ目を留めた、だからカインは怒ってしまったのだ。
嫉妬
理由もなくどうして弟だけなのだ、という嫉妬がカインの心に芽生えたようだ。そう思うのも尤もだと思う。そりゃ怒るよなあ。
しかし主は「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのかもしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」なんて言うのだ。それはないよと思う。アベルの献げ物にだけ目を留めておいて、カインの献げ物には目もくれなかったのに、その上この言いぐさはないんじゃないの、あんまりだよと思ってしまう。
問いかけ
人生は納得できないこと、理解できないこと、不条理が一杯だ。正直者が馬鹿を見ると思えるようなことも現実にはいっぱいある。どうしてあんないい人が苦しむのか、どうしてこんな人が早く死ぬのか、あるいは逆にどうしてあんな奴がいい思いをするのか、どうしてあんな奴がいい地位にいるのか、なんてことがいろいろある。そしてどうして自分はこんなにしんどい思いをしなければならないのか、どうして自分がこんな病気にならないといけないのか、それは切実な問いかけだ。どうして自分が、自分だけがこんな辛い人生を歩まねばならないのか、それはとても重い疑問である。
どうして自分の献げ物には目を留めてもらえないのか。どうして弟の方ばかり、こいつさえいなければ、思うような気持ちを自分も持っているなと思う。
語りかけ
怒るカインに向かって主は語りかけている。「どうして怒るのか、、、」。かなりひどい言い方だなあとは思うけれども、とにかく語りかけている。しかしカインはそれに対して答えることはしない。怒りを内に秘めたまま、その怒りをひとかけらも外にこぼすまいとしているということでもあるかのように無言のままである。そしてアベルを野原に連れ出して殺してしまう。
本来カインの怒りの対象は神に向けるべきものであったはずなのに、その怒りの矛先は弟に向けてしまい、ついには弟を殺してしまう。兄弟に対して、また兄弟だけではなく、誰かに対して憎しみを持つこと、嫉妬すること、それはやがて殺人へとつながっていく第一歩であるということらしい。
そうするとまた神はカインに語りかける。「お前の弟アベルはどこにいるのか」神はカインがアベルを殺したことをすでに知っている。なのに弟はどこにいるのか、と聞くのだ。
本質
カインの怒りの根本は神が自分の献げ物に目を留めないで弟の献げ物に目を留めたということにあったはずだ。しかし結局は最後までその根本的な問題に対する問いかけをすることなく弟を殺してしまう。そしてさらにその殺人を隠そうとする。
弟を殺しても根本的な問題、何故神が自分の献げ物に目を留めなかったのかということは解決するはずもないのに、そうしないではいられないほどに怒りは大きくなってしまっていたのだろうと思う。
しかしこのカインの気持ちがとてもよく理解できる。カインの姿は人間の本質を現しているということでもあるのだろうと思う。
何故
不条理な世界である。どうして私だけがこんな思いにならないといけないのか、どうして私ばかりがこんなに苦しまないといけないのかと思うことがいっぱいある。そしてまわりに対して、特に弱い者に対して怒りをぶつける、それが私たちの現実だ。
それもこれも神がしたことなのだ、と納得できればいい。納得できる事ならば大した問題はない。しかしそうそう納得できない。どうしてだ、何故なのだ、という思いが沸き上がってくる。神を信じているのにどうしてこんなことになるのだ、ということもいっぱいある。
間一髪助かったとか、九死に一生を得た、なんてことを経験することで、神様が守ってくれたと感謝する、という話しを聞くこともある。しかし現実はそんなに都合のいいことばかりが起こるわけではない。間一髪助からなかった時、たまたま事故に遭い死んだとき、珍しい難病になって治療する方法が見つからない、なんてこともある。そうなってしまったときはどうするのだろうか。そんな時は、どうしてなのだ、どうしてこんなことになるのだ、という思いに私たちを支配されてしまうのではないのだろうか。
カインはそんな思いに捕らわれたままだったようだ。そしてその思いを自分で抱えたまま、その思いを兄弟に対する憎しみに変えていった。どうしてか、なぜなのか、それを神に問いかけることをしなかった。疑問や不信を神にぶつけることをしないで、自分よりも優遇されているように見える弟にぶつけてしまったのだ。問いかけるべき神に問うということをしなかったので、その疑問や不信が弟に対する憎しみと嫉妬へと形を変えて出ていってしまったのではないかと思う。
何とも悲しい物語である。
負いきれない罪
弟殺しの罰を受ける、ということを神に聞かされて初めてカインは自分のしたことの大変さに気づいたようだ。重すぎて追いきれないほどの罪であることを、そして自分が神から離れてしまうことで命が危険にさらされることを自覚する。嫉妬にかられていたときには分からなかったその罪の重さに、神から指摘されて初めて気付いた、ということなんだろう。
守り
殺人を犯したカインにも、神は語りかけ続けるのだ。弟はどこにいるのだ、あなたは何をしたのだ、と問いかけている。
神はカインが地上をさまよい、さすらう者となるという。しかし神は、だれもカインを撃つことのないようにしるしをつけられたというのだ。怒り、嫉妬に狂い弟を殺してしまったカインを守るというのだ。
神は追放したアダムとエバを追ってエデンの園の外へ出てきた。そしてまた神の守りは地上をさまようカインの住む、エデンの東へと延びていくことになった。
罪を犯した者にも、神は尚も語りかける。弟はどこにいるのか、何をしたのかと神は問いかけ続けておられる。間違い、失敗をする、殺人をする私たちをも尚も見捨てない、私たち自身に間違いを気付かせようとする神、しかし尚も声をかけ、関わり続けようとする神なのだ。
弟はどこにいるのか、それはカインにとってビクッとする、恐ろしい一言でもあったことだろう。しかしそこからカインの新しい一歩が始まった。
私たちも神のそんな声を聞いていきたい。そして神と共に、そして隣人と共に生きていきたいと思う。
何故を神に問うこと、それが大事なことなのだろう。答えがすぐに返ってくるとは限らない。ずっと答えがないままなのかも知れない。しかし何故なのか、どうしてなのか、それを神に問い続けること、それが大事なことなのだろう。
詩編133編「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」嫉妬し憎み責め合うものは共に座っていることなどできない。罪人同士として、赦しあい、いたわりあい、愛し合うこと、そこで初めて共に座ることができるように思う。
神の前に、共に負いきれない罪を持つという罪人として立つこと、それが私たちのあるべき姿なのだろうと思う。