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礼拝メッセージより
「ガリラヤで」 2011年4月24日
聖書:マルコによる福音書 16章1-8節
召天者記念
今日はイースター礼拝、並びに召天者記念礼拝である。イースターはイエスの復活をお祝いする時である。イエスは十字架にかけられて死に、三日目に復活したと聖書は証言している。そのことを喜ぶ時がイースターである。そしてその三日目というのは日曜日に当たる。
もともと旧約聖書では、神が天地を造った時に週の7日目に休まれたことから、7日目つまり土曜日を安息日とするように書かれている。そこでユダヤ教では土曜日に会堂に集まっていたらしい。けれども、キリスト教の多くの教派は日曜日に礼拝をするようになった。それは日曜日にイエスが復活したので、そのことから日曜日に礼拝するようになった。そして日曜日を主イエス・キリストの日、主の日と呼び、毎週の礼拝を主の日の礼拝、主日礼拝と呼んでいる。つまり礼拝はイエスの復活をお祝いすることであって、毎週の礼拝がイースターの礼拝でもある。
そして今日は召天者記念の礼拝でもある。先に召された方々のことをも思いつつこの時は過ごしたい。
数年前、千の風になってという歌は流行った。私の墓の前で泣かないでください、私はそこにはいません、眠ってなんかいません、千の風になっていつもあなたを見守っています、というような歌だった。
人は亡くなるとどうなるんでしょうか。なんとなくお墓の中にいるような気もするし、そこにずっといるわけではないだろう、と言う気もする。ここに一緒に入ろうというお墓の宣伝があったり、俺と同じお墓に入ってくれ、というプロポーズをした人がいるという話しも聞いたことがある。
よくは判らないけれども、お墓の中にいるよりは千の風になってくれてたほうがいいような気もするな、なんて思う。
結局亡くなった人がどうなっているのかはよく判らないというしかないような気もする。
誰だったか忘れたけれど、千の風になってはイエスさまのことを歌っているのだと言ってた人がいた。そう解釈した方がすっきりするなと思った。イエスさまなら墓は空っぽでいないし、復活したんだからもう死んだままではない、生きている。この死にピッタリだと思った。
復活
16:1「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。」
ユダヤの一日は日没とともに終わる。そして次の一日が日没とともに始まる。
安息日が始まる前の日にイエスは十字架に付けられた。そして「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのでうか」と叫んだのが3時だったと書かれている。15:42「すでに夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であった」。それからあわてて墓に入れられた。遠くから十字架を見守っていた女の人達のことが15章40節に書かれている。その内の二人が墓を見にいったことが47節に書かれている。
墓に埋葬されたのが夕方であったということはその日がもうすぐ終わり、次の日が始まろうとしている時だった。次の日とは安息日で、安息日には労働をしてはいけないとか、遠くまで行ってはいけないという決まりがあり、日没までには家に帰らないといけなかったようだ。あわてて埋葬したために遺体の処理を十分にする暇もなかったらしい。そしてそのことを女の人達はとても気にしていた。
イエスが十字架で殺された次の日、その安息日はいわば沈黙の日だった。マルコによる福音書もその安息日のことは何も書かれていない。15章と16章の間が安息日ということになる。
イエスについてきた彼女たちにとってはつらい沈黙の続く24時間であったに違いない。彼女たちは事の成り行きをずっと見守っていた。この数日の出来事を見ていた。そして、イエスが十字架で処刑されたことによって、どれほどのショックを受けたであろう。イエスは捕らえられ、事態は思わぬ悪いほうへと向かっていった。そして結局は最悪の結果となった。
しかし彼女たちはそこを去ろうとはしない。処刑されて死んでしまったイエスにも関わり続けようとする。男たちはみんなそこを去ってしまった。彼らは気が動転して、また自分自身の身の危険を感じてか、十字架の近くにはいなかったようだ。しかし彼女たちはどこか冷静である。あるいは強さがあるのかもしれない。
16:1「安息日が終わると」と書かれている。彼女たちはイエスの遺体の処理を早くしなければという思いで、安息日が終わるのを、つまり早く日没にならないかと多分待ちかねていたのだろう。そして日没になり安息日が終わると急いで香料を買いにいったのだろう。日が暮れてから暗くなるまでのわずかの間に香料を買い、そうしている内に辺りは暗くなり夜を迎えたことだろう。
16:2「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」そして夜が明けて明るくなるのを待ちわびて墓に向かって行ったのだろう。一晩中起きていたのかもしれない。
行動
しかし彼女たちにとってまだ大きな問題が残されていた。それは墓の入り口に大きな石があるということだった。とても自分たちの力でどうにかなるような代物ではなかったようだ。その石をどうにかしないことには墓の中に入っていけない。イエスに油を塗ることもできない。彼女たちの計画はまるで実行できない。いちばん大きな問題を残したまま出かけた。大きな問題を抱えてもなお彼女たちは動き出している。
しかし、その問題の石はもうすでにどけられていた。そのお陰で、彼女たちは墓の中へ入っていった。しかしそこにはイエスの姿はなく、ただ若者がいるだけだった。
ところが若者が復活を告げる。6-7節「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。・・・」なんてことを言う。全く予期せぬ事態に驚く彼女たち。イエスの遺体はなく、変な若者がいただけ、そして訳の分からんことを言われた。彼女たちは、震え上がり、正気を失っていた、そして恐ろしくて誰にも何も言わなかったと書いてある。
宣伝?
教会にとって都合のいいことが起こった?教会の宣伝になるようなすごいこと?とんでもない。そんな悠長なことを言ってる場合ではない。
彼女たちはイエスの復活を聞いて大喜びで帰った訳ではなかった。
イエスは復活なさった、と書かれている。神によって甦らされた。イエスは弱い人間のままで十字架で殺された。絶望の叫びをあげて死んだ。
イエスはその絶望するような状況を自分で振り切って自分の力で復活した、と聖書は言っていない。復活させられた、と言っている。神によって復活させられた、と言っている。そこまでただの人間でありつづけたということか。
イエスがどのように復活させられたのか、よくは分からない。どんな形で復活させられたのかもよく分からない。肉体をもってなのか、それとも幽霊みたいなのか、よくは分からない。しかしよくは分からないが復活のイエスは自分について来ていた女たちや弟子たちに会ったことが福音書に記されている。
そしてそのことから弟子たちは元気になっていった。彼らは絶望していた。神よ、どうして私を見捨てたのかと叫んだのは十字架上のイエスだけではなく、弟子たちも同じような思いだったに違いない。ほとんど再起不能というような状況だったことだろう。
しかし弟子たちは復活のイエスと出会った。それがどんな出会いだったのかもわかりにくいところもある。けれどそのイエスとの出会いが弟子たちに力を与えた。それは弟子たちにとっての復活でもあったのだろう。
イエスは復活させられた。死からも復活された。イエスを縛りつけるものは何もないことが明らかにされた。
しかしそのイエスとの出会いがなければそれはただの不思議な話に終わってしまう。イエスと出会うことで弟子たちにとっての復活があったように、私たちもイエスと出会うことで初めて私たちにとっての復活がやってくるのだ。
私たちが礼拝を日曜日にするのは、この復活が日曜日のできごとだから。だから日曜日を主の日と呼んで、主イエスが復活したことを記念して主の日に礼拝をしている。
ガリラヤで
マルコによる福音書は16章の8節で終わっている。9節以下は括弧になっている。これは多分後で足したものだろう、というのが通説。マルコによる福音書は新約聖書の中の四つの福音書の中でも一番最初に書かれた福音書。しかしその最初の福音書には復活後のイエスの姿は何も書かれていない。なぜなのか、いろんな説があるようだ。なくなってしまったのではないかとか、ここまで書いたところで書けない状況になったのではないかとか。
誰だったか、マルコは敢えて復活のイエスを書かなかったのではないか、それは復活のイエスの姿がどうであったかを書く必要がなかったからではないか。十字架につけられる前のイエスは、そのまま復活のイエスだから。つまり生前のイエスがそのまま復活のイエスだから。だから復活のイエスの姿を書かなかったのではないかと。そうかもしれないなと思う。
天使は婦人達に弟子たちへの伝言を伝えた。それはイエスは先にガリラヤへ行かれるということだった。
ガリラヤ、そこは弟子たちにとって生まれ育った所、またイエスについて行って活動した場所。かつてのイエスと生活を共にした場所。そのガリラヤでまたお目にかかれる、と天使は告げる。それは生前のイエスを知ることが復活のイエスを知ることでもあるということなのだろう。イエスのすがた、イエスが語ったことばをもう一度しっかり聞くこと、そのことが復活のイエスと出会うということでもあるのだろう。
ガリラヤとは彼らの日常の生活の場所でもあった。イエスは復活させられて弟子たちから遠く離れた所へ行ってしまったのではなく、弟子たちが普段生活をしている場所へ、それも先に行かれる。
そしてまたガリラヤは弟子たちが逃げ帰って行く故郷でもあった。師匠を十字架で亡くした弟子たちが、失望のうちに帰って行く場所でもあった。何もかも捨てたのに、のこのこと帰っていく所だった。そこしか帰るところはなかった。しかしイエスはそこに先に行かれるという。自分の駄目さを嘆き失望し挫折し、そして人目を避けて逃げ帰って行く所、そこにイエスは先に来ておられるのだ。
共に
イエスは私たちと共にいるために復活させられた。いつも私たちと共にいるために復活させられた。着飾って、かっこつけて、かしこまっている時だけではなく、挫折して、うちひしがれて、悲しんで、悩んで、生きる力もなくしてしまうような時、そんな時にもいっしょにいるためにイエスは復活させられた。イエスは私たちが有頂天になって舞い上がる時も、全然うまくいかないでどん底に落ち込むときも、先回りして待っていてくれている。そんな風に、イエスはいつも私たちと共におられるのだ。イエスは私たちがどこにいても、お前が大切なのだ、あなたが大切なのだと語りかけてくれているのではないか。
今日は召天者の記念礼拝でもある。先に召された方たちがどこでどうされているのかはよく分からない。けれども、死から復活されたイエスは、この方たちとも共に居てくださっているはずだ。私たちもやがて死の向こうへ行く。どういう世界なのかホントに分からない。でもそこにもイエスは居てくれているはずだ。そのイエスをずっと見上げていきたいと思う。