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礼拝メッセージより
「大肯定」 2011年4月17日
聖書:マルコによる福音書 14章3-9節
無駄遣い?
小さい頃から何かにつけて勿体ないと言われてきた。無駄遣いをしてはいけないと言い続けられてきた。何かを買うにしても無駄にお金を使うことはいけない、出来るだけ安く出来る限り安く、という気持ちが強い。あっちの店はもっと安いとか、この品物の方がもっと安い、と言われてきたせいじゃないかと思うけれど、ちょっと高い物を買う時には勇気がいる。もっと安いものがあるかもしれないとか、店にまで行っているくせに、本当に必要なんだろうかなんて思って買わなかったりなんてことも多い。自分自身に対していっぱい理由をつけないと買えないなんてことも多い。
でも勿体ないと思いすぎて、結局は安物買いの銭失いなんてことになることがよくある。
大学の時、ある人がこんなことを言っていた。大事な人に会うために遅れそうになったとき、タクシーを使うことは全然勿体ないとは思わない、ということだった。とにかくお金を使うことは勿体ないことだと思っていたのでびっくりした。確かにそうだろうなと思いつつ、そう簡単には変われない自分もいる。
勿体ない?
イエスがライ病の人シモンの家で食卓に着いていたときの話。
一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
ナルドというのは、ヒマラヤ山脈原産のナルドという植物の根から取った、非常に高価な芳ばしい香料、だそうだ。その後の話からするとその香油は300デナリオン以上に売れるものだったらしい。1デナリオンが一日の賃金だから、1日の給料を1万円としても300万円もするようなものだった。その香油をこの人はイエスの頭にかけてしまった。壺を壊して。壊すということは全部使ってしまうということだろう。壊してまでかけなくても、少しだけにしとけば残りを持って帰ることもできたのに。
300万円あればなにをするだろうか、と浅ましい考えをする。そんな高価なものを頭からぶちまけてしまって、誰だって怒りたくなるだろうと思う。
「何でそんなもったいないことをするのか。そんな無駄使いをするんなら俺にくれ。」と言いたくなってしまう。
記念
イエスは「するままにさせておきなさい」と言われる。そういえば、人々がイエスにさわってもらうために幼子を連れてきたときにも「そのままにしておけ」と言っていた。
さらにイエスは「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」とまで言われる。このことは良いことだと言うのだ。周りのものが厳しくしかっていることに対して、いかにも無駄使いと思えるようなことに対して、イエスはこれは良いことだと言われる。さらに、世界中どこでも、福音がのべ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう、とまで。記念ということばは、主の晩餐の時に、わたしの記念として行ないなさいと言われたときの言葉で、他では見あたらない言葉だそうだ。つまりイエスの死を記念するのと同様にこのことを記念すると言うことのようだ。
絶望
そもそもなぜこの女の人はこんなことをしたのだろうか。
大事に大事にとっていた高価な香油だったのではないかと思う。いざというときにはその香油を処分して金に換えるためにとっていたのかもしれない。しかしその香油を全部使ってしまった。壺を壊してイエスにかけたわけだから、全部をかけた、残しておくつもりはなかった、ということだろう。
彼女はもうそんなものはどうでも良くなったのだ。この世のことはどうでも良くなっていた、つまりこの世に絶望していたのではないかと思う。だからこの世で生きるためにとっておいた香油も使ってしまったのではないか。この世に絶望して、ただイエスにすがりついた。
なぜイエスにそんなことをしたのか、この女の人自身にもよくわかっていなかったんじゃないかと思う。絶望が彼女の中にあったに違いない、と思う。絶望した彼女の心に思い浮かんだのがイエスだったのではないかと思う。
高価なものをもささげるすばらしい信仰心が彼女のあったからこうしたというよりも、彼女にとってはそれがいくらなのかなどということは頭の中にはなかったに違いない。その後どう生きていくのかなんてことはもう考えられないような、そこで人生を終えてしまったかのような姿がそこにあるように思える。そして彼女の行為は滅茶苦茶な行為だった。それが埋葬の準備だとしても、生きている内にそんなことをするのは失礼な話しだ。
しかしその彼女の滅茶苦茶な行為をイエスは受け止め賞賛している。
できるかぎり
そこにいた何人かが、この女の人の行為を無駄遣いだ、と憤慨したと書かれている。300万円以上に売って貧しい人に施せたのに、と。とても常識のある人たちの常識的な評価だ。
イエスはそれに対して、貧しい人々はいつもあなたたがと一緒にいるから、したいときによいことをしてやれる。なんて答えている。
実はがみがみ言う人ほど施しはしてないのかもしれないと思う。もし300万円あれば施しが出来ると非難する人ほど、実際に300万円を手にした時には何もしない、ということが多いような気がする。
これだけあれば、あれだけあれば、なんてことが多い。もう少し余裕ができれば、そういいながら結局何もしないことが多い。イエスは貧しい人々はいつもあなたと共にいるという。したいときにはいつでも出来るという。出来るのにしてないじゃないか、なのにこの女の人に対しては文句ばかり言うのか、ということを言っているのかもしれない。
イエスは、この人はできるかぎりのことをした、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた、世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう、と言った。
訳の分からない行為だった。何の意味もないような行為だった。まるで無駄遣い、勿体ないことだった。でもイエスはその行為に意味を与えた。誰もが非難するような行いだった。けれどイエスはその行いを全面的に肯定したということなんじゃないかと思う。
この女の人はこれを聞いてびっくりしただろうと思う。自分の滅茶苦茶な行為を受け止めてくれて、それに意味を見つけ出してくれて誉めてくれたわけだ。
自分の価値を見失い、自分の行為の意味も見いだせないということは何よりもつらいことだろう。自分なんか居てもいなくてもどうでもいいんじゃないかと思う、自分がやっていることには何の意味もない、誰の役にも立たないと思うことは何よりも苦しいことだ。
でもそんな私たちをイエスは受け止めてくれているということだ。絶望感にさいなまれて自暴自棄になって、訳のわからないようなことをしてしまう私たちだ。でもそんな私たちをイエスは受け止めてくれる。そんな私たちをも全面的に肯定してくれているに違いない。
良いこと
「わたしに良いことをしてくれたのだ」、多分この女の人はこのイエスの言葉に支えられて生きていったんじゃないかと想像する。
イエスにもたれかかった行為だったのだろう。こんな人生もうどうでもいい、もうどうしていいか分からない、どうにでもなれという思いをイエスにぶつける行為だったんじゃないかと思う。でもイエスはそんな行為に対して、わたしに良いことをしてくれたと言ってくれたんだろうと思う。
もっともっとぶつかってきなさい、そのままでぶつかってきて欲しい、イエスはそう言われているんじゃないだろうか。そしてそれこそがイエスにとっては何よりも良いことだと言われているのではないだろうか。