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礼拝メッセージより
「共に生きる」 2011年5月1日
聖書:創世記 1章1-3、26-31節
関係
歴史的に科学的にこのようになったというわけではないだろう。科学的にこうなったということを主張するために創世記がまとめられたのではない。そうではなく、神と被造物との関係、神と人間との関係を表すために書かれたもの。創世記は神と人との関係を示す物語。
人間は神によって造られたという。人と神には、造る者と造られた者という関係があるというのだ。また神はすべてを造ったものでもあるというのだ。全ての命のもとが神である。自分の命のもとも神であるというのだ。我々の神は天地の造り主であるということだ。
絶望
創世記がまとめられたのはイスラエルの民がバビロン補囚を経験している時だそうだ。国がなくなってしまい、自分たちは一体なんだったのかということをもう一度考え直す時だったろう。国が負けるということは相手の国の神の方が強いというような考えもあったらしい。自分たちの神が相手の神に負けてしまったのではないかというようなことも考えられたらしい。しかしそういった不安を抱えている民に向かって、何があろうとこの神はすべての命の源であるのだということ、国がなくなり苦しい思いをしているけれども、なお神は神であり、自分たちはこの神に造られた者としていきていくのだということを伝えている。
国が滅亡し、主だった人たちは敵の国バビロンに補囚され、まさに混沌の時代であった。しかし神は混沌と闇の中から天地を、そして全てを創造する方であるというのだ。混沌と闇の中で神は言葉を発し働きかけるのだ。
目的
また、神が創造したということは、神が目的を持っているということだ。神の目的があったから私たちは創造されたということだ。目的がなく造るということはない。創世記は、人は偶然生まれたのではなく、神が造ろうとして造られたから生まれたのだという。それが何のためなのか、それは神に聞くしかない。またどのように生きることが私たちにとってふさわしいことなのか、それも神に聞くしかないということになる。造った者こそがそれを知っている。
確かなことは、人が神に聞く者となることを期待しているということだろう。神は人がそれを聞くようにと願って語りかけているのだろうと思う。神が語り、人が聞く、そんな関係を持ち続けることが私たちにとってのあるべき姿だろう。
苦しみ
苦しみに会うとき、会っている時、病気になったとき、何もかもうまくいかず訳が分からずまさに混沌に極みにあるとき、あるいは目の前に得たいの知れない暗闇が待ちかまえているように思え、ただうろたえるしかないようなとき、いったい誰に助けを求めればいいのか分からなくなる。何処に神がいるのか、神はどこへいってしまったのか。神は私を見捨てたのかと思う。
しかし神は混沌の中で言葉を発し、働きかける。
光あれと言うことで、光と闇とを分ける。また水は混沌を意味し、また怪獣のすみかであるように考えられていたそうだが、神はその水を分け、乾いたところを造る。
神は闇も水もなくしはしない、しかしその中に光を乾いた地を造り出す。神はそういう仕方で働きかけておられるようだ。
私たちは苦しみがなくなってほしい、自分の都合の悪いことがなくなってほしい、私たちの病気や死や怪我や嫌な思いや不機嫌になる出来事を何とかなくして欲しいということを願い祈る。私たちはそう祈ってもそう簡単にはなくなりはしない。でもどうもそんなものはなくなってはくれないらしい。死にたくないと願っても死から逃げ出すことは誰にも出来はしない。
しかしそんないろんな苦しみがある中に、闇や水がある中に、神は光を、乾いた地を造るのだ。苦しみをなくすのではなく、光あれと言って光りを造る、そういう風にして神は私たちに関わってくれているということだろう。そして神はそれを良しとされている。光と闇があることを神は良しとされているのだ。ならば私たちが闇がなくなることばかりを必死に求めるとしたらそれは神が良しとしたことを私たちが良しとしていない、ということになる。苦しみがなくなることばかりを必死に求めることではなく、光を求めること、それが私たちがすべきことなのかもしれない。
支配
また1章の後半では、人は神にかたどって造られ、地に満ちて地を従わせ、生き物すべてを支配せよ、と言われている。
この地を従わせ、生き物すべてを支配せよ、というから人間は傲慢になってしまっていたのかもしれないと思う。世界は自分たちが支配するもの、、自分たちが従わせるもの、自分たちは世界の他の者よりも一段高い所にいるものである、という気持があったようだ。だから自分たちの都合で、自分たちの勝手にしても構わない、人間の都合を一番にする、人間のために世界はあるのだ、と思っていたらしい。
工業の発達が欧米から起こって来て、キリスト教国と言われるような国々が資源をいっぱい消費しゴミをいっぱい出している。
少々のことならば地球の再生能力のお陰でたいしたことはなかったようだが、あまりにひどくなってきて地球の能力を超えるような破壊が起こってきた。そしてその為にいろんなところに弊害が出てきている。
地を従わせる、世界を支配する、ということは本当は人間が自分勝手に何をしてもいい、自分の好きなようにしなさい、ということではないらしいのだ。
被造物
人間は結局は被造物にすぎない。神に造られた者に過ぎない。神ではないということだ。すべてをうまく管理することはできない。
神は人に食料を与えられている。地上のものを支配するようにと任せてくれている。しかしそれは人が自分の都合で自分の好きなようにしていいということではないらしい。
人間は自分の都合でいろんなことをしてきた。自然を変えてきた。自然を自分の都合のいいように変えてきた。人間は昔から川のあるところで生活してきたみたいだが、本来川は蛇行して流れるものであるが、その川をまっすぐに流れるようにしてきた。街の中の川はまっすぐ流れているところが多い。でも最近になってドイツだったか、またもとのように蛇行するように戻そうとしているところもあるそうだ。それはそれでまた大変な労力とお金がかかるそうだ。
自分の都合のいいように変える力を人間は持ってきた。その技術を発展させたことはすごいことだ。そのお陰で随分と便利な世の中になった。昔ステンレスの流し台とか洗濯機とかをどうやって作ったかなんてテレビがあったけれど、昔の主婦の大変な仕事をなんとか楽にしようということで智恵を絞って作ってきた。人間の知恵と技術で大変な重労働や危険なことからも解放されてきたことも事実だ。
いつしかすべてのことを管理できる、すべてを支配できるというような錯覚に陥ってしまっていたんじゃないかと思う。人間にとって都合のいい世界ができると思ってきたのではないかと思う。ところがここに来ていろんな弊害が一杯出てきている。都合のいい世界を作っているつもりでいたのに、却ってどうしようもなく都合の悪いことが起こって来ているようだ。まるで予想できなかった事態が起こってきている。石油を使うようになってとても便利になった。大きな機械を動かすことができるようになった。車で人や物をいっぱい運べるようになった。と思ったいたら空気を汚して病気になる人が出てきた。人間は都合の悪いことが起こって初めて気が付いているという気がする。
要するに人間は結局は自然を管理なんて出来ないということなんだと思う。そのことに少しずつ気づいているんじゃないのかな。自然を管理する力は本当は人間にはないのではないか。人間は自然と同じに神に造られた者であるに過ぎないということなんだろうと思う。
従わせるとか支配するといういうのは、本当は自分の都合のために自由にしていいということではなく、しっかりと守っていくということなのではないかと思う。
共生
だから人間は自然を力ずくで管理するのではなく、自然の中でどう生きていくか、自然とどうつきあって生きていくか、自然をどう守って生きていくかを考えないといけないのだろう。人は、自然の中で生きていくしかないというか、自然は人を生かしてくれるゆりかごのような、母親のお腹の中のようなものなんだろうと思う。力ずくでどうにかうするものではなく、いたわって守っていくものなんだろう。
昔見たテレビで現代の日本語に関する番組があった。その中で、先生がずっと日本は男が上にいて女が下にいた、日本語でもそういう関係からの言葉ができてきた、なんて話しをしていたが、その先生が、日本人はずっとどっちが上か下かということを問題にしてきた、ずっと男が上だと思ってきた、最近は女が上だという意見も出てきた、いつもどっちが上かという見方をしてきた。でもこれからは上とか下とかではなく、一緒に生きていくという考え方が必要なのではないか、そして日本語の言葉としても上下関係でない一緒に生きていくという関係の言葉が生まれてくればいい、というようなことを言っていた。
確かにいつも、誰に対しても、何に対しても上下関係という関係で見てしまっていたような気がする。人間関係にしても、自然とか動物とかとの関係にしても上か下かという関係でものを見ているという気がする。上のものに対しては気を遣ってよいしょして、下のものにはわがままで横柄な態度を取る、結局どっちかしかないのかもしれない。上下関係でない、一緒に生きていくという関係をこれから作らないといけないのかもしれない。
そして自然を守ること、環境を守ることは、地球に生きる者みんなを大切にすること。この地球で一緒に生きていくという関係の中で初めて私たちは生きていける。環境を破壊してしまってはまともに生きていけない。私は何ともないからどうでもいい、と思う傍らで、一番弱い者たちに現実に弊害が出ている。そんな者たちを守るという意味でも環境を守っていかないといけないのだろう。そしてそれは自分自身をも大事にすることなのだと思う。