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礼拝メッセージより
「いやしとゆるし」 2011年4月10日
聖書:マルコによる福音書 2章1-12節
いやし
福音書の中のイエスはいやす人だ。福音書の中にはいやしがいっぱいある。「誰それをいやす」というのがいっぱいある。そのうわさもすぐに広まっていったようだ。だから、イエスのまわりにはいつも病人が大勢いた。
カファルナウムでも大勢の人が集まってきて戸口のあたりまですきまがないほどだったと書いてある。家の大きさはどれくらいで、そこにいた人の人数はどれくらいだったのだろうか。イエスはみんなに揉みくちゃにされていたのかもしれない。とにかくすごい光景だ。
そこへ4人の男が中風の人を運んできた。中風とは、脳血管障害後の体の麻痺のことだそうだ。その身体の動かせない者を寝かせたまま運んできた訳だ。でも戸口まで人がいっぱいだったので、そこから入っていくわけにはいかなかったのだろう。そこで4人は屋上に登り、屋根をはぎ、中風の者を寝かせたままつりおろした。
当時のこの地方の家は、普通部屋がひとつだけだったそうだ。そして屋根は材木の梁と木の枝を編んだものと、粘土の覆いからなっていた四角い箱のような家だったそうだ。毎年秋には雨期に入る前の修理をしないといけないということで、家の外には屋根に上がるための階段がついているものが多かったようだ。
多分この時の家にもそんな階段がついてあって、この4人の男たちは屋上に登り、粘土をはがし、木の枝を取り、大きな穴を空けたのだと思う。「イエスがおられるあたり」の屋根を剥がしたのだから、当然粘土や木の枝や小さなくずがイエスの頭に降ってきたことだろう。どんな顔をして見上げていたのだろうか。
それにしても、この4人の男の行動力はすごいものがある。5節に「イエスは彼らの信仰を見て」とあるが、その時4人の男たちにとってはまわりの者がどう思うかなんてことはどうでもよかったようだ。そんなことよりも、この中風の者をイエスに会わせたくて仕方なかった、イエスに会わせさえすればどうにかなる、どうにかしてくれる、そしてそれが彼らの信仰だろう。
イエスの中風の人への言葉は「子よ、あなたの罪は赦される」というものだった。突然、何を言いだすのか、といった感じがする。これを聞いた律法学者が「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と言ったと書かれている。
この律法学者の言うことはまったくごもっともな言葉だ。人間が神になりかわったようなことをいうなんてことはとんでもないことだ。もしそれをただの人間が言ったとしたらそれはまさに神を冒涜していることになる。しかし、もしそれを言っている自分の目の前にいる者が神であるなら、それに対して文句をいう筋合いではない。でも、律法学者にとっては、そんな「もし」はあり得ないことだった。というか、普通そんなことはありえない。だから律法学者の言うことは普通は全くその通りなのだ。
人間が誰かに対して、適当に「あなたの罪はゆるされた」と言ったとしたら、それこそ本当に神をけがす思い上がりだろう。神になりかわって赦すとか赦さないとかいうようになるとそれこそ神を冒涜することになる。私はあの人をゆるしてやった、とか私は人をゆるすことができる立派な人間だ、なんてことになりそうだ。まるで自分が神の代理人か神自身にでもなったかのようなことになると、すれば大変なことだ。神でないものを神とすること、それを偶像崇拝と言う。偶像崇拝とは、形ある像を拝むことと思いがちだけど、ただ形あるものを拝むことだけではなく、神でないものを神とすること、それが偶像崇拝だろう。自分が神になってしまっているならば、それも偶像崇拝と言えるような気がする。
ゆるす
ゆるすというのは、口先だけなら簡単だが、本当はそうではないのかもしれない。ある説教者が「赦すというのは、汝の敵を愛せよ、という積極的な血痕のついたキリストの言葉につながっている」と語ったそうだ。イエスの生きざまはそんなものだった。自分の命をかけて、実際に十字架で血を流し殺されてしまった。だからこのイエスの「あなたの罪は赦された」という言葉は、イエスの血のついた言葉なのだ。イエスの赦しというのは、相手を生かすために、自分が死ぬことだったようだ。あなたの罪を私が引き受けるだから大丈夫だ、ということのようだ。口から適当に軽々しく言った言葉ではない。
9節「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。
どっちがやさしいのだろうか。どっちなんだろう。いつもわからなくなってしまう。罪は赦された、と口先だけで言うのはたやすいことだ。本当に赦されたかどうかなんて誰にも確かめようもない。でも自分の存在すべてをかけて、命懸けで「あなたの罪は赦された」というのは本当は起きて歩けというよりも難しいことかもしれない。でも歩けというのも難しい気がする。その言葉で確実に歩くようになるという保証があるのなら歩けというのも易しいのだが。
イエスはまず罪の赦しを宣言した。それは罪の赦しのほうが大事なことであるからではないか。病気だけ治しても根本的な解決にはならない。人間は誰でもいつかは死なないといけないのだ。イエスが来られたのは、いろんな人の病気を治すためと言うよりも、罪を赦すため、罪のために神を忘れている人間を取り戻すため、罪を赦された者として生き生きと生きるようにさせるため、それが第一の目的だったようだ。そしてその罪の赦しのしるしとして体をもいやしたのだろう。
当時は、病気は罪の結果だと考えられていたそうだ。体がいやされなければ、いつまでも罪があると考えられていたらしい。そのためにもイエスは体をもいやしたのではないか。
イエスに床を取り上げて歩けといわれた人は起き上がりすぐに床を担いで出て行った。それは床に縛りつけられていた者をその束縛から解放したことでもあったと思います。
私たちも実の多くのものに縛られている。まわりの人のいろんな言葉に縛られている。お前には無理だ、出来るはずがない、そんなにうまくいくはずがない、世の中そんなに甘くない、という言葉が私たちの自信をなくし、私たちの心に劣等感と空しさを植え付ける。もっと頑張らなければいけない、この世の中、もっと自分から積極的に出て行かねば問題は解決しない、そんな言葉が追い討ちをかけて自分を苦しめる。そしていつしか、わたしにはできない、やっぱりわたしはだめなんだ、そんな気になる。
気がついたら何もする気力もなくなり、自分の体も全く動かなくなって、がちがちになって身動きとれなくなってしまう。まるで何かに心も身体も縛りつけられているようだ。
そんな私たちに向かってイエスは「あなたの罪は赦された、起きて歩きなさい」と言われているのではないか。
昔見たある映画で、妹の野球の試合を見に行った兄が、妹がバッターになった時に応援をする場面があった。「大丈夫だ、打てる、お前は天才だ。」
イエスも言っているのではないか。「大丈夫だ、心配するな、お前は天才だ、出来る、絶対に出来る。」そんな風に言っているのではないか。
肯定による安心
宗教は何を与えようとするものなのでしょう。柔和で寛容な人格や、厳しく誠実な反省でしょうか。正義を求める行動や、献身的な奉仕でしょうか。暮らしは低く思いは高い生活態度でしょうか。そういうこともありましょう。しかし、宗教が本当に与えようとしているものは安心なのです。ただしそれは、金とか健康といった安心を支える材料を与えるという意味ではなく、そういう材料のあるなしに関係の無い、人生の最深層からの肯定にこそ安心はあることに気付かせるという意味です。人生はどんなに悲惨であっても肯定されています。
『福音はとどいていますか』 藤木正三
この世の中否定的な言葉が満ちている。そしてそんな言葉に縛り付けられて自分で自分を罰して、自分を責めて、自分を否定している。あの時あんな失敗をした、こんな間違いを犯した、やっぱり私は駄目な人間なんだ、こんな人間では駄目なんだと思ってしまっている。
でもイエスは言うのだ。あなの罪はゆるされる、と。大丈夫だ、あなたはあなたでいいんだと言っているのだろう。それは藤木正三の言葉でいうと、金とか健康が保証されるということではない。そんなことではない、もっと深い所、最深層からの肯定という意味での大丈夫ということなんだろう。
イエスは私たちのことをよく知っていると思う。私たちがどんな人間かもすべて知っているはずだ。私たちが罪にまみれた人間であることも、決して誰にも見せられないような醜い自分を内に秘めていることも、そしてそんな真実の自分がいつかみんなにばれてしまうのではないかと怯えてびくびくしていることも、きっと知っている。
全部知った上で、「あなたの罪は赦される、起き上がって歩きなさい。大丈夫だ、あなたはもう立って歩くことができる。心配するな、わたしがついている。だから立ち上がってごらん。」と言われているのだろう。最も深いところをイエスはしっかりと支えてくれているということだろう。それを知ることがいやしなのだろう。
いやしとは病気が治ることだけではないような気がする。びくびくして、まわりの目を気にして、これでいいんだろうか、こんな私でいいんだろうか、駄目に決まっている、皆駄目だというに決まっている、そう思っている者が、「お前でいいんだ、それでいいんだ、お前じゃないといけないんだ、お前しかいないんだ、大丈夫だ、立ち上がりなさい、お前は天才だ」、そうイエスから言われて元気になること、安心して生きること、これこそがいやしではないか。
私たちを一番深い根っこで支えてくれている、そんなイエスの言葉をしっかりと聞いていきたいと思う。