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礼拝メッセージより
「招き」 2011年4月3日
聖書:マルコによる福音書 1章16-20節
暗示
イエスが伝道を始めたのはヨハネが捕らえられた後だった。
バプテスマのヨハネがイエスを指し示した。そのヨハネが捕らえられ、殺された。そのこともイエスの行く末を暗示しているかのようだ。
満ちた
またイエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」これがイエスの教えの総括ともいうようなことだったようだ。
時は満ちた、とイエスは言った。バプテスマのヨハネは「その時が来るであろう」と語ったが、イエスはその時が来たと語る。では、それはどんな時か。それは神の定めた時、神の約束の時。そしてまた神の国が近づいた時。
神の国とはもともと神の支配ということであった。もちろん神は永遠にすべてのものを支配しているけれども、新しい形で神の支配が始まった。そんな時が来た。
では新しい神の支配とは何か。バプテスマのヨハネは神の支配を神の裁きと考えたようだ。ルカ3:7-8 「まむしの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と言って、神の裁きからのがれるために悔い改めを迫る。悔い改めにふさわしい実とは、具体的にはルカによる福音書3:11-14に、『ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。』とある。
悔い改め
イエスも同じように「悔い改めよ」と言う。しかしイエスはヨハネと違って「悔い改めて福音を信ぜよ」と言う。ヨハネは悔い改めて善い行いをしなさいという。けれどもイエスは悔い改めて福音、つまり神さまからの良い知らせを信じなさい、と言う。
福音とは、良い知らせとは何か。それは、繰り返し繰り返し罪を犯してしまう、絶望しかないわたしを決定的に救ってくださる新しいことを神が始められたというニュース。
イエスが十字架の死によってわたしの罪を引き受けてくださる、そのことを信じるものは、どのような者でも赦されるということ。
良い人間に変わることで救われるというのではない。方向を転換して、神がイエス・キリストによってして下さったことを見なさい、と聖書は告げている。イエス・キリストは私たちの罪を完全にあがなって下さる。神はそのような救い主を私たちのために遣わしてくださった。これが福音。
まず神の国が到来し、悔い改めが続く。
「悔い改め」とは何か。福音に対して、全身全霊をもって立ち向かうこと。イエスの方を向くこと、イエスに従うこと、全てをイエスにかけること。悔い改めというと、私が悪うございました、私は罪を犯しました、私は本当に駄目な人間です、ごめんなさい、すいません、と言うことのように思いがちじゃないだろうか。でもそれだけでは本当は悔い改めではない。悔い改めとは、それよりもイエスにすべてをかけて従うこと、イエスのあとについていくことだ。イエスについていかないならば、いくら自分のことを悔やんでも、謝っても、それは悔い改めではない。イエスは私たちの悪いところをいちいち指摘して、ここがだめだ、これもだめだ、さあ謝れ、なんてことは言わなかった。イエスは人に謝ってもらうためにきたのでもない。イエスは自分についてくるように、と言われた。すべてを捨てて付いていくのか、何もかももったままでついていくのか、それはいろいろだけれども、とにかく自分に従ってくることを望んでいる。そのことこそが悔い改めだろう。
日常
イエスはガリラヤで宣教を始めた。ガリラヤは辺境。ガリラヤという言葉自体も辺境という言葉に由来しているそうだ。中央ではない、神殿もない、だれもが気にもかけない、見捨てられている所、片隅。
しかしイエスはその辺境で宣教を始めた。だれも気に留めない、そんな人間に福音を語った。イエスはまず漁師に声を掛けた。彼らはすぐに従った。
シモンとアンデレは漁をしているとき、ヤコブとヨハネは船で網の手入れをしているときだった。イエスは突然語りかける。普通の生活をしている時に語りかける。4人が特別に信仰心があったというわけでもないだろう。学があったわけでもないだろう。特別ななにかが4人にあったわけではないようだ。また宗教的な何かをしていたわけでもない、日常の生活の中で声を掛けた。
当時漁師は取税人のように軽蔑されていたそうだ。それがイエスの弟子になった。みんながのけものにしているような者をイエスは弟子にした。でもそんなことはイエスの弟子になるための障害ではなかった。むしろイエスはそんな人間をわざわざ選んでいるようである。何も自慢するものを持っていないような、何もできないようなものをわざわざ選んでいる。そんなのを集めてもどうしようもないだろうというような者を真先に選ぶ。私たちもそんな仕方で選ばれたのかも。イエスのような人間が人事部にいたら、その会社はすぐにつぶれてしまうかも。
神が新しい支配のなかに私たちを入れてくださるのも、これと同じだろう。私たちがふさわしいからとか、それなりのすぐれた何かがあるからではない。全くなんにもない私たちを神は愛して下さる。エフェソの信徒への手紙2:5 「あながたがの救われたのは恵みによるのです」。このことばもじっくりと噛み締めたい。自分も自分の隣人も恵みによって救われた者同士ということだ。
捨てる
4人の漁師は網を捨ててすぐに従った。生活の基盤を捨ててまでも従った。こういう所を読むと、でも私にはそんなことはできない、とすぐに言う人がいる。できませんねえ、ハッハッハ、なんていう人がいるけれど、すぐに結論を出さない方がいいではないか。私についてきなさい、とイエスが自分に向かって面と語られたときに、できませんねえ、ハッハッハなんて言えるのか。できないかもしれない、でももっとじっくりイエスの言葉を聴いた方がいいと思う。
できない、と言ったとしてもイエスの言葉を心に秘めておきたいと思う。
弟子たちが網を捨てて従ったと聞くとき、自分は何が捨てられるのか、何も捨てられない、と思う。私は捨てられない、と言う声もよく聞く。8:34では「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とある。自分の持っている中で何が捨てられるか、と言うよりも、自分を捨てることが大事。自分中心のことを捨てる。自分のことしか考えないエゴを捨てることが大事なのだ。私は私は、という気持ちを捨てることが大事。
自分は立派だ、自分は偉い、自分は信仰深い、そう思っていることを捨てなさい。あるいは自分は立派じゃない、自分は偉くない、自分は信仰深くない、そういう自分を捨てることかもしれない。自分の持ち物はそのままでいいから、自分のエゴを捨てなさいと言われているのかもしれない。
こんな話しがある。
『彼は貧しさと厳しさとが最も大切なことだと考えていました。何よりも大切なことは、自分のエゴを捨てることだということを、けっしてわかっていませんでした。エゴは世俗的なものによるだけでなく、神聖なものによっても太るのです。豊かさだけでなく貧しさによっても、ぜいたくさだけでなく、厳しさによっても太ります。エゴが太るのに、利用しないものは何もありません。
弟子「わたしは手に無だけを持って、あなた様のところにまいりました。」
師 「では、それをすぐに捨てなさい。」
弟子「でも、どうしてそれを捨てられるのですか? それは無なのですよ。」
師 「では、それを持って歩きなさい。」
あなたは、あなたの〈無〉を所有してもいいのです。あなたの捨てる心をトロフィーのように持って歩いてもかまいません。あなたの所有する心を捨ててはいけません。あなたのエゴを捨てなさい。
(『小鳥の歌』アントニー・デ・メロ著、女子パウロ会)』
自分は偉いだとか偉くないとは、信仰深いとか深くないとか、そんなふうに自分の方向に向いている心を、神のほうに向きを変えて神を見ること、それが大事なのだろう。私のことだけを見つめるのではなく、「わたしはだめだ、しかし神はすごい」、「私にはできない、しかし神にはできる」、そんなふうに「私は私は」、から「神は神は」へと変えていくこと、それが悔い改めなのではないか。
神の国はもうそこに来ている。イエスはもう来られている。だから悔い改めて福音を信じよう。イエスについていこう。