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礼拝メッセージより
「ヨシヤ王の死」 2011年3月27日
聖書:列王記下 23章21-30節
宗教改革
神殿再建の途中に律法の書が発見されたことから、ヨシア王は主のみを礼拝することとし、異教の施設を破壊しあらゆる偶像を排除した。また地方の聖所を廃止してエルサレム神殿に統合した。
ヨシヤ王の時代、一時的に北の強国アッシリヤの圧力が弱まり、ユダ王国はアッシリヤ帝国の属州となった旧北イスラエル王国を奪還し、ダビテ時代の大イスラエル国に回復することが出来たそうだ。
そして南のエジプト、北の軍事大国アッシリヤ、そしてアッシリアに反旗を翻した新興勢力バビロンの列強の狭間で、ユダ王国は挙国一致の体制を作る必要があった。
そんな政治的背景がある中でヨシア王の宗教改革は、唯一の神、唯一の聖所、一つの「聖なる民」を理念として、国民精神の統一を計り、挙国一致態勢を調えようとしたものでもあったようだ。
ヨシヤ王は、反アッシリアということでバビロンと友好的であったらしく、首都ニネベをバビロンに攻められて陥落したアッシリヤを救援に行くエジプト王ネコを阻止しようとした。しかしメギドでの戦いであっけなく戦死してしまう。
22:2ではヨシヤ王は「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。」と言われている。また23:25でも「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち返った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。」と絶賛されている。
しかしヨシヤ王の死から12年後には、エルサレムはバビロンに占領され、第一回のバビロン補囚がはじまり、それから数年してユダ王国は滅ぼされてしまう。列王記ではそれは2代前のマナセ王のせいだとされているけれどどうなのだろうか。
列王記では王を神に従った良い王と、神に従わなかった悪い王とにきれいに分けているけれど、実際には人間はそう簡単に分けられはしないだろう。完全に良い人間と、完全に悪い人間なんて多分いないだろう。
ヨシヤ王の改革も、いろんな宗教が混在していて、それが当たり前になっているような状況の中で、主のみを礼拝するのだという明確な指針を示した点では功績があったのだろう。
けれども、各地の聖所を廃止して、エルサレム神殿だけにするというような在り方は、政治的な中央集権のやり方を宗教に持ち込んだということでもあるようだ。自分のお膝元にすべての権力を集中させようとする思いがあったのではないかという気もする。
インターネットを見ているとある人が、ヨシヤ王の宗教改革を、譬えは悪いが明治政府が教育勅語を発布し国粋主義化し富国強兵を計ったのに似ている、と書いていた。
聖書教育にも、彼は武力に頼んだがゆえに武力によって滅ぼされました。剣を取る者は剣によって滅びるのです(マタイ26:52)、と書いてあったけれど、確かにそうかもしれないと思う。宗教改革の目的が、実は国を強くするためだったのだとしたら本末転倒だろう。その結果39歳で戦死してしまったのも仕方なかったことかもしれないとさえ思える。
その後南ユダ王国も滅ぼされバビロン補囚を経験することになる。そしてそこでイスラエルの民はどうしてこんなことになったのかと考えたようだ。そしてその結果が、主のみを礼拝するということの大切さだったようだ。偶像を礼拝してきた結果が、国が滅ぼされるということであったと考えた。
バビロン補囚を経験することから律法がまとめられたそうだ。ヨシヤ王の時代に発見された律法もその中に含まれているそうだ。
国は滅びた、けれども律法は残った。苦しみを経験することで、逆に何が大切だったのかということを見極めることが出来たということなんだろう。律法が、つまり神の言葉が大事である、神の言葉を聞くことが大事であるということを再発見したのだろう。
イエス
イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言っている。そしてその律法の中で最も重要な掟は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と「隣人を自分のように愛しなさい」であると語っている。
ヨシヤ王は律法を大事にすることで国を一つにまとめ、国を強くしようとしたのではないかと思う。けれども、律法の目指すところは、国を強くすることではなく、神を愛し人を愛すということだ。
聖書教育の少年少女科に、「国のために尊い命を捧げられた英霊の慰霊・顕彰を行い、首相の靖国神社公式参拝を求める」ことを目標とする「英霊にこたえる会」の標語に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエスの言葉が使われている、またドイツのルーテル教会のベルリン大聖堂にも、第一次世界大戦の戦死者を顕彰するために、同じ聖句のレリーフが刻まれている、イエス・キリストの十字架の苦しみと愛を示す大切な聖句が、戦争への士気を鼓舞するために使われている、と書いてあった。
聖書の言葉も、使おうと思えばどんな風にでも使えるのだろう。
律法の精神、聖書の精神、イエス・キリストの精神をしっかりと汲み取っているかどうかが大切なのだろう。そうでないと、自分では正しいと思っていながら、とんでもない思い違いをしている、なんてことになりかねない。
自分の思いを主張するために聖書の言葉を使っているとしたら、とんでもない間違いをしかねない。自分の考えを押し通すためにイエスの言葉を利用しているとしたら、自分がイエスを従わせていることになる。
私たちはイエスに従っているのだろうか。それともイエスを従わせているのだろうか。