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礼拝メッセージより
「変革」 2011年3月20日
聖書:列王記下 23章1-10節
間違い
これまでしたきたことを変えることはとても難しい。変えた方がいいのではないかと思っても、なんだかんだと口実をつけてそのままを続けることが多い。まして誰かから間違いを指摘されて、それを改めろと言われても、自分の間違いを認めることはなかなか出来ない。自分が間違っていたということを認めて、それを正そうとするのはなかなか大変だ。
今までしてきたことはなんなのか、何の意味もなかったのか、なんてことを思う。今までしてきたことを否定されたくないと誰もが思う。今までしてきたこと、今もしていることを否定されること、間違っていると言われることは自分の存在そのものをも否定されることのように思ってしまう。自分のしてきたことは意味がある、正しい、間違っていないことなのだという面子がある。自分の間違いを認めるということはその面子がつぶれることでもある。でもそんな面子を気にするあまりに、その面子がつぶれることを嫌ってしまうことで、自分を正す機会を逃がしてしまうと、もっと大事なものを失ってしまうことにもなりかねない。
昔、川の中州でキャンプをしていて、少しずつ川の水が増えてきて、ついには流されてしまったなんていう事故があった。危険だから移動するようにという警告もあったそうだがそのまま動かなかったらしい。どうして安全なところへ移動しなかったのかと思う。
でも同じような状況になった時、自分ならどうするだろうかと思う。自分が、ここがいいここは大丈夫だといってそこにテントを張ったとしたら、その場所を動かしたくないという気になりそうだ。途中で誰かが大丈夫かと聞いてきたとしても、大丈夫だ、なんて意地になって言ってしまいそうだ。そうすると余計に後に引けなる。自分のしことが間違っていたと言うのはなんだか言いづらいところがある。大丈夫だと言ったじゃないか、と言われたくないというような面子がある。そうすると自分の間違いを認められない。間違いを認められない、認めたくないから間違っていてもそれを正せなくなる。本当は移動した方がいいと自分でも思っていても、自分の面子の為に半ば意地になってそこに止まり続けるなんてことになりそうだ。そして気がついたときには取り返しのつかないことになっていた、なんてことがある。
律法の発見
南王国ユダのヨシヤ王の治世第18年に神殿の修理をしている時に律法の書を発見した。そしてその律法の言葉を聞いたヨシヤ王はびっくりした。律法の命じていることを全く行っていなかったからだ。神の命令に背いている現状を知った。先祖代々この言葉に背いていることを知った。そしてそれに対する神の怒りをも知った。
時の祭司たちは女預言者であるフルダのところへ行って、神が本当にそう思っているのかということを確かめにいったようだ。そしてまさに律法が語っていることが神の命令であり、それに従っていないので災いをくだす、という神の言葉を告げられる。
そこで23章のところで、ヨシヤ王は全ての民を集めて、神殿で見つかった律法の書を読み聞かせ、主と契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、律法に記されている言葉を実行することを誓った。
改革
ヨシヤ王は律法に忠実に生きるという約束を実行した。それは国の中にあったさまざまな偶像崇拝と一掃することであった。4節以下にそのことが書かれている。実に多くの偶像崇拝に関するものがあったことが分かる。いろいろな宗教の影響を受けていろんな偶像がはびこっていたようだ。その偶像のいろいろな施設を国の中から一掃した。かなり徹底してやったようだ。それはそれまでのいろんな習慣やしきたりを変えてしまうことでもあっただろう。行き方自体を変えてしまうことだっただろう。そしてそれはヨシヤ王や民が律法を守るためにやらねばならないことだったのだ。なんとしても少しでも律法に従おうとする熱意がその改革を行わせたのだろう。
聖書
私たちはどのように聖書の言葉を聞いているのだろうか。
私たちは自分の方が正しいのか、あの人のほうが正しいのかということをとても気にしているような気がする。そして自分の正しさを求めようとするような面がある。だから誰かの間違いを指摘するのは好きだ。誰かの間違いを見つけることで安心するような面がある。
逆に自分の間違いを指摘されることはとても嫌だ。そのために自分の間違いを教えてくれる言葉をなかなか聞けなくなってしまう。その指摘を受け止めることが出来にくくなってしまう。
今地震の後の原発の問題が大騒ぎになっている。電力会社や政府に対していろんな文句を言いたくなる。実際いっぱい言っているけれど。原発なんか造るからだ、なんて。
ネットを見ていると、ある人がアメリカ人から、あんな原発の建設を許した日本国民の責任だと言われたと書いてあった。確かにそうだなと思った。今まで何も言わないで造らせてきた責任は確かにあるだろうと思う。
だからこれからは自分たちが責任を持って真剣に考えていかないといけないと思う。間違いの責任を誰かに押しつけて、自分は潔白であると言うのではなく、自分に責任がある時にはそれを自分で負っていくことが大事なのだろう。それは自分が間違っている時はそれを認めて正していくということでもあると思う。
私たちが目指すべきは間違いのない完全な人間になることではないだろう。どうもそれは無理なようだ。そうではなく、自分は間違いを持っている人間であることを認めること、そしてその間違いを神の声を聞きながらいつも正していく人間、それこそが私たちが目指すべき姿ではないか。
自分はこんなに正しい、こんなに立派になった、ということを自慢するのではなく、正しい神に聞いていくことを喜ぶ人間、間違いを持ちつつそのことを赦され、愛されていることを喜ぶ人間、それこそが私たちの目指す姿なのではないか。
口実
しかし実際には神の言葉を聞いてもそれをなかなか実行できないこともある。改めようとしてもなかなかできないことが多い。しかし出きる出来ないはともかくその言葉を聞くことが大事なのだろう。出来ないからといってその言葉を拒絶してしまうのではなく、なかなか出来ない自分であることをも認めていくことが大事なんだろうと思う。そして耳障りがよくても悪くてもとにかく神の言葉を聞くことが大事なのだろうと思う。その言葉は私たちを正しい道に導く言葉なのだから。
きっと耳障りな言葉の方が私たちにとっては大事な言葉なのだろう。ドキッとするような言葉の方が私たちにとっては大事なのかもしれない。私たちは自分の正しさを認めてくれた時の方が嬉しいと思う。今日は恵まれた、なんて思う。確かにそれも大事だ。でも自分にとって聞きたくもない、と思うような言葉の方がもっと大事なのかもしれない。自分の生き方を揺さぶる言葉の方が大事なのかもしれない。衣を引き裂くような衝撃的な言葉の方が、実は私たちにとっては大事な言葉なのかもしれない。
何もかも神の言葉を聞くことから始まる。神の言葉を自分がしっかり聞くことから、自分を正す力が出てくる。自分が大事にしてきたことを止めることになるかもしれない。かつて自分が大事にしてきたことを止めるというのはなかなか大変なことだ。生き方を変えるということも大変なことだ。しかしそれが神が示された道ならば、そこには神はきっと新たな世界が用意してくれているはずだ。私たちが間違いを示される時、それは新たな世界への招きなのかもしれない。だから神が用意されている新しい世界を目指して神の声を聞いていきたいと思う。