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礼拝メッセージより
「熱情の神」 2011年3月13日
聖書:列王記下 22章14-20節
ヨシヤ
22章11節には、神殿再建の途中で発見された律法を聞いたヨシヤ王は衣を引き裂いた、と書かれている。なぜそんなことをしたかということが13節に書かれている。
「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ。」
主の怒りの激しさを聞いたからヨシヤ王は衣を引き裂いたらしい。これはえらいことだ、このままだと主の怒りを招いてしまう、一体どうしたらいいのか、と思ったのだろう。
フルダ
そこで祭司たちを預言者であるフルダという人のところに遣わして、どうしたらいいのかと尋ねさせたようだ。それが今日の箇所である。
ユダの民に対する言葉と、ヨシヤ王に対する言葉が語られている。ユダの民に対しては、他の神々を礼拝したことによって災いを下す、主の怒りは燃え上がり消えることはないというものだった。これに対し、ヨシヤ王に対する言葉は、そのことを聞き心を痛め衣を裂き泣いたので、安らかに息を引き取る、私の下す災いを見ることはない、というものだった。
熱情
自分以外のものを礼拝し、ひれ伏す者に対しては災いを下し、それが間違っていたと悔いて泣いて反省する者には、その災いを下さないというわけだ。
神ってすごく人間的に見える。
出エジプト記20章にモーセの十戒が出てくるが、5-6節には「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾先代にも及ぶ慈しみを与える。」と書かれている。ここに熱情の神という言葉が出てくるが、これは口語訳ではねたむ神である、と訳されている。
神ってのは、なんとなく冷たく固いもののような感じがしているけれど、そうじゃないようだ。他の神を礼拝する者には災いを与えると言われていて、それはなんとなく機械的に判定して、お前は駄目、お前は合格、と判定するようなイメージがある。要するになんだか命のない冷たい機械のような感じ。
でも実際はどうもそうではないらしい。神がねたむなんて、そんなことあるんだろうかと思う。そんな人間くさい面を持っているのだろうか。ねたむということは、ねたみを起こす程熱い思いを持っているというでもあって、そういうことから新共同訳では熱情の神と訳しているのかなと思うけれど、兎に角神は冷たい神ではなく熱い神だということのようだ。
ということは、お前はどうして俺のことを信じないんだ、どうして俺を礼拝しないんだ、なんであいつらのことを拝むんだ、というような思いを持っているらしい。俺を信じろよ、俺についてこいよ、俺に聞いてくれよ、というような思いを持っているってことなんだろうと思う。
そんなだから、他の神にひれ伏すユダの民に災いを下すことに決めた、と言いつつ、ヨシヤ王が衣を引き裂き涙を流したのを見ると、お前だけは免除する、なんてことを言っているのではないかと思う。なんだかお調子者に見えなくもないけれど、かなり熱いようだ。
神は天地を支配される方であって、なんて聞いてきて、確かにそうなんだろうけれど、そう聞くとこの宇宙を支配しているわけで、この宇宙の平均温度は−270℃なんてことも聞いたことあるし、神ってかなりクールな方なんじゃないかと勝手に想像している。だからそんなクールな神にお願いするのもなんだか憚られて、下手なお願いをしてもどうせ聞いて貰えないだろうと勝手に思っている。
でもどうも神は全然クールじゃないらしい。−270℃の神じゃないようだ。そうじゃなくかなり熱い神で、熱い思いを持って私たちのことも見つめているんじゃないかと思えてきた。
祈る時も、なんだかかしこまって、どうかよろしくお願い致します、申し訳ありませんでした、なんて言わなきゃいけないように思ってきたけれど、というよりも、どんな祈りをしたって冷たく反応も返さないような感じでいたけれど、泣いたりわめいたりのたうち回ったりしている私たちのことを見つめて、同じように苦しい思いを持って、また熱い思いを持って見つめているんじゃないかと思うようになってきた。
列王記の内容とは随分かけはなれた話しだけれど、少し神の暖かみを感じるようになった気がする。