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礼拝メッセージより
「再発見」 2011年3月6日
聖書:列王記下 22章1-13節
マナセとアモン
南ユダ王国の王であり、列王記下18:7では「主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した。彼はアッシリアの王に刃向かい、彼に服従しなかった。」と高い評価を受けていたヒゼキヤ王が死に、その子マナセが王となった。
しかしマナセはヒゼキヤがなくした聖なる高台を再建し、バアルの祭壇を築き、アシェラ像を造り、天の万象の前にひれ伏し、主の神殿の中に異教の祭壇を築き、主の神殿の二つの庭に天の万象のための祭壇を築き、自分の子に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、口寄せや霊媒を用いるなど、主の目に悪とされることを数々行い、主の怒りを買った。主は王国を敵の手に渡すことにし、やがて南王国は敵に侵略されて滅びることとなった。
マナセが死んだ後その子アモンが王となったが、アモンも父マナセと同じく偶像に仕え、主を捨てて主の道に歩まなかった。
彼の家臣たちは謀反を起こし、アモン王を宮殿で殺害した。アモンの在位は2年間だった。ということが、列王記下21章に書かれている。
王を殺害して謀反は成功したのかと思いきや、謀反を起こした張本人たちは殺害されてしまってみんな処分され、王の子どもヨシヤが新しい王となった。
ヨシヤ
その時ヨシヤは8歳だった。ヨシヤの祖父マナセと父アモンが共に主の目に悪とされることを行ったのに対して、ヨシヤは主の目にかなう正しいことを行ったと言われている。
王が2代続けて主の目に悪とされることを行ってきたのに、突然主の目にかなうことを行う王が登場したのにはわけがあったらしい。
列王記下21:24を見ると、アモン王が殺害された後、「しかし国の民は、アモン王に対して謀反を起こしたすべての者を討ち、その子ヨシヤをアモンの代わりの王とした」と書かれている。聖書教育によると、この「国の民」というのはただ国民という意味ではなく、「国の民」という政治勢力なのだそうだ。
対立
ヨシヤの祖父マナセは55年間王位にあった。これは南ユダ王国の王の中で一番長く、北イスラエル王国を含めても一番だそうだ。そんなに長く続いたのは、北にあるアッシリアに忠実だったからのようだ。アッシリアの記録には、貢ぎ物を納める属国の王としてマナセという名前があるそうだ。
バアル礼拝やアシェラ礼拝が息を吹き返したのにはそんな影響があるようだ。アッシリア自体がバアル礼拝を強要したことはないそうだけれども、属国になっているという負い目からも、アッシリアの影響を強く受けていたのだろう。
強国アッシリアに貢ぎ物を納めることでユダ王国は平穏であった。しかし外国の属国であることをよしとしない、また外国の影響を受けて偶像崇拝を行うことを良しとしないというグループも当然あったであろう。国の民というのはまさにそんな自主独立を標榜する、そして偶像崇拝を無くそうとする、そんなグループだったのではないかと思う。
マナセの次に王となったアモンがどうして殺害されたかは書かれていない。あるいはアモンがアッシリアからの独立を模索しようとし、そのためにアッシリアに忠実であることこそが大事であると考えていたマナセの時代からの家臣たちに殺されたのかもしれない、と注解書に書いてあった。社会が変わることで自分たちの既得権益が守れないと思えば王をも殺してしまいかねないということかもしれない。
そしてそんな混乱に乗じて国の民はアッシリア寄りの家臣たちを一掃して権力を掌握したということなんだろうと思う。彼らは8歳のヨシヤを王として、王を教育しつつユダの独立を画策していったのではないかと思う。
律法
ヨシヤが成長し王としての実権を持ち始めた頃、アッシリアの王アシュルバニパルが死に、アッシリアの力は急速に落ちていった。やがてアッシリアは新バビロニアによって滅ぼされることになる、いわば衰退期を迎えていた。そこでアッシリアから独立を目指そうとする気運もりあがっていたのだろう。
神殿で律法が発見されたのは丁度その頃だそうだ。神殿の修復をしている時に発見されたと書かれている。本当に発見されたのか、あるいは発見されたことにしたのか、よくはわからない。ヨシヤが書かせた物を神殿で発見したことにしたとも考えられる。
いずれにせよ、ヨシヤは自分たちの国が歩んできた道をもう一度見つめ直し、何が大事なのかをよく考え直したということだろう。
北イスラエルはなぜ滅んだのか、結局それは主の命令に背き、主に従わなかったからであるということに気付いたのだろう。
主のみを礼拝し、主のみに従うこと、そのことの大事さを再発見したのだろう。
再発見
私たちにはもうすでに神の御言葉が届けられている。その大切さに私たちも気付いていないのかもしれない。いつもいつも何か足りないような気になっていて、いつも何かを求めて捜し回っている。でも本当に私たちに必要なもの、本当に私たちが求めているもの、それはすでに私たちに届けられているのではないか。その価値を私たちも再発見していきたいと思う。