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礼拝メッセージより
「ありがたい?」 2011年2月27日
聖書:列王記下 20章12-21節
メロダク・バルアダン
メロダク・バルアダンは紀元前721年からバビロンの王であったが、紀元前710年にアッシリアの王サルゴンによってバビロンから追放された。その後、サルゴンが紀元前705年に死ぬと、王位への復帰をたくらみ、703年に帰り咲いたが、たった数ヶ月の後にセンナケリブに敗れ去った王である。
メロダク・バルアダンがヒゼキヤの病気を見舞いに使者を送ったのは、紀元前705年にエジプトと同盟を結んで反アッシリアを鮮明にしたヒゼキヤを支持し、その仲間となろうとしたためのようだ。
ヒゼキヤは自分を支持してもらい、反アッシリアの仲間が増えたことに気をよくして、国中のものを見せたということらしい。自分の国はこんなに豊かで力があるのだということを見せつけたかった、これはすごいですねえと賞賛されたかったということもあるんじゃないかと思う。
イザヤ
ところがこのことを聞いたイザヤは、何もかもバビロンに持って行かれる、息子たちの中にはバビロンの宮殿に連れて行かれ、宦官になる者もある、という主の言葉を告げた。
見せたのがいけなかったのだろうか。見せると後々侵略されてしまうのだろうか。見られることは支配されることを意味する、と聖書教育には書いてあった。多分そのせいで、その後南ユダ王国はバビロンに滅ぼされることになり、イザヤの告げたとおりになる。
ありがたい?
イザヤの言葉を聞いたヒゼキヤは、あなたの告げる主の言葉はありがたいものです、と答えた。それは自分が生きている間は平和と安定が続くと思ったからだと聖書教育にも書いてある。
息子たちは大変な思いをすることになると言われたけれど、それはきっと息子というよりも子孫たちということだろうけれど、それは所詮子孫たちのことだから、自分は大丈夫なのだ、だからありがたいと言ったのだろうか。自分さえ安泰だったらいいんだという気持ちはもちろん誰でも持っているとは思うけれど、でも自分の子孫たちが大変な目に遭うと言われているのにありがたいなんて言うかな。
最近いろんな国で権力者に反旗を翻しているということをニュースで見る。あれを見ていると、以下に民衆が我慢してきてかということと、権力者がいかに権力を離したがらないかが見えてくるような気がしている。民衆に苦しい思いをさせていても、自分がいい思いを経験してしまうとそこから離れられなくなってしまうみたいだ。ああいうのを見ていると、権力を持ってしまうと他の者たちのことなどどうでもよくなるのかもしれないと思う。
ヒゼキヤも権力者であったわけで、そんな風に自分の生きている間さえ安泰で、権力もそのまま持てればそれでいいと思って、それでありがたいと言ったのだろうか。
列王記にもそう書いてあるしそうなのかもしれないけれど、今回ここを読んだ時に、ヒゼキヤはイザヤの言葉がただうるさかったんじゃないかと言う気がした。つまりありがたいと言ったのはいわば嫌味だったんじゃないかという気がした。
ヒゼキヤはバビロンからの使者が見舞いに来たことでとても気を良くしていた。反アッシリアの仲間が増えたということでとても嬉しかった、だから国中のものを見せたのだろう。いわば舞い上がっていたんじゃないかと思う。なのにそのことを聞いたイザヤはそんなヒゼキヤの舞い上がった気持ちに冷や水をかけたようなものだった。それを聞いたヒゼキヤは、もういい、勝手に言っといてくれ、はいはいあなたの言うとおりです、あなたの言葉はありがたいお言葉です、と嫌味を言ったんじゃないかと思った。
生き方
イザヤは20章の前半でもヒゼキヤに主の言葉を告げている。それは、あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい、という事だった。これを聞いたヒゼキヤは、私がこれまであなたに従ってきたことを思い起こしてください、と祈り、寿命を15年延ばしてもらったと書いている。
自分のことだったから真剣に聞いて対応したというのもあるだろうけれども、ヒゼキヤはその時は自分から祈った。つまりヒゼキヤ自身が行動を起こした、ヒゼキヤ自身に変化が起こった。
一方、自分の子孫たちがバビロンに連れて行かれると聞いたときにはヒゼキヤはありがたいと言って何もしていないようだ。自分さえ安泰だったら後はどうでもいいと思ったのか、それともうるさいことを言われてまるで聞く耳を持たなかったからなのか、兎に角その時にはヒゼキヤには何の行動も起こしてなく、変化もない。
主の言葉ってのは私たちに変化を起こさせるもの、起こさせようとするものなんじゃないかと思う。生き方の変化、あるいは生き方の修正と言った方がいいのかもしれないけれど、本来進むべき方向へ進むようにと修正させるためのものなんじゃないかと思う。そこでその言葉をどう聞くのかが問題になる。
神の言葉もうるさく聞こえることもある、というか案外大事な言葉はうるさいなあと思うことが多いんだろうと思う。それを聞いて修正するってことは結構大変なことだ。それは生き方を変えることでもある。もう放っておいてくれ、これでいいじゃないかと思うようなことが多いんじゃないかと思う。
聖書の中にも、こうしなさい、これをしてはいけない、なんてことが結構ある。
それは難しい、そんなことできるわけがない、とすぐに投げ捨てたり、ありがたいお言葉です、と言ってただ聞き流すことが多いような気がする。
でも神さまは大切なことだから、大事なことだからこそ、それを私たちに伝えようとしているのだろうと思う。私たちは神さまのそんな言葉をどれほど真剣に聞いているのだろうか。