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礼拝メッセージより
「絶体絶命」 2011年2月20日
聖書:列王記下 19章8-20節
ヒゼキヤ
列王記下18章を見ると、ヒゼキヤが南王国ユダの王であったとき、北王国イスラエルは大国アッシリアに占領されてしまった、そしてその原因は北王国が主に聞き従わなかったからだと書かれている。
一方南王国のヒゼキヤ王は主の目にかなう正しいことをした王ということで評価されていて、18章7節を見ると、「主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した。彼はアッシリアの王に刃向かい、彼に服従しなかった。」と書かれている。
しかし18章13節以下を見ると、そのアッシリアの王センナケリブが攻め上ってきて、ユダの砦の町をことごとく占領したと書かれている。そうするとヒゼキヤは、アッシリアの王に刃向かい彼に服従しなかったと書かれているのに反し、何でも言うことを聞きますから引き揚げてくださいとと言い、銀300キカル、金30キカル、主の神殿と王宮の宝物庫にあったすべての銀、自分が金で覆った主の神殿の砦と柱を、アッシリアの王に贈った。
それでアッシリア軍が帰ってくれればよかったのだが、アッシリアの王センナケリブは使者をエルサレムに遣わして、エジプトに頼ることは歴史を見て分かるとおり無意味でむしろ危険である、ユダの王は聖なる高台と祭壇を取り除いたのだから自分の神に頼ることはできない、自分たちの弱小軍隊に頼ることなんてできるはずもないだろう、こうやって我らが来たのはお前達を滅ぼすために主に遣わされたのだ、なんてことを言ってきた。
そして民衆に向かって大きな声で、ヒゼキヤにだまされるな、ヒゼキヤの言うことを聞くな、どこの国の神もアッシリアから救い出すことはできない、どの神がエルサレムをアッシリアから救い出すと言うのか、と語った。
そのことを伝え聞いたヒゼキヤ王の姿が19章1節以下に書かれている。ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った。そしてイザヤの下に使者を遣わし、ここに残っている者のために祈って欲しいと伝えた。
イザヤは、恐れるな、わたしが彼らを自分の地に引き返すようにする、という神の言葉を伝えた。
その後のことが今日読んだ聖書の箇所だ。アッシリアからエルサレムに来ていた使者であるラブ・シャケは、エルサレムを離れてリブナという所を攻撃している王と落ち合う。そしてアッシリアの王は今度はユダのヒゼキヤ王に手紙を送った。アッシリアから守られるなんて思うな、お前だけが助かるなんて思うな、という脅迫状みたいなものだった。
ヒゼキヤは神殿に上って祈った。あなたは地上のすべての王国の神です。天地を造った方です。アッシリアは色んな国を滅ぼし、その国の神々を火に投げ込みました。でもそれは所詮人間が造ったものです。どうか私たちを救い、あなたこそ本当の神であることを知らせてください、と祈った。
その後、イザヤがアッシリアの王は都に入場することはないという神の約束を告げ、35、36節には、その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で18万5千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた、と書かれているように、南王国ユダは奇跡的に守られたようだ。
絶体絶命
ヒゼキヤ王にとってこの状況は絶体絶命のピンチだったんじゃないかと思う。まわりの国々の多くはアッシリアに占領されてしまい、自分の国も直接アッシリアに対峙しないといけなくなってきた。そして最初にラブ・シャケにエルサレムで脅されて、アッシリア軍が目の前に迫ってきている、王国の命も風前の灯火といった感じだったのだろう。そんな時に届いた手紙を見て、ヒゼキヤはどう思ったのだろうか。
怒ったのだろうか。怒りではなく恐れのような気がする。いろんな恐怖と不安にさいなまれていたんじゃないかと思う。そんな時ヒゼキヤは自ら祈ったという。
祈り
恐怖に押しつぶされそうになるとき、不安で不安でたまらなくなるとき、そんな時祈るしかない。物事が順調に進んでいるような時はいいけれども、うまくいかないとき、先が見えないとき、ただ待つしかないようなとき、そんな時は不安で不安で仕方なくなる。
自分の力でどうにかなるのならばいいけれども、自分の力ではどうにもならない時は不安になってうろたえるしかない。
脅迫状のような手紙を受け取ったヒゼキヤはまさにそんな感じだったんじゃないかと思う。貢ぎ物をすることで帰って貰おうとしたけれど全く効果はなく、戦っても勝ち目はない。どうすればいいのか全くわからない、そんな状況だったのだろうと思う。いつ責められるか、いつ捕まるか、いつ処刑されるか、そんな不安にさいなまれていたんじゃないかと思う。
まさに祈るしかない、祈るしかすべはないという感じだったのだろう。
なにがあっても神の頼めば、神にまかせれば、それで大丈夫となればいいけれど、それで大丈夫だという保証もない。
祈ればいいんじゃないかということは分かっている、でも祈っても不安がきれいになくなるわけではない。でもやっぱり祈るしかないというか祈られずにはいられない、という時がある。
でもそこで祈ることができるということは幸せなことだと思う。「最もすぐれた祈りは、言葉よりもうめきである」ということが本に書いてあった。
本当に大変な時にはうめくしかない、不安で不安でたまらない、心配で心配でたまらない、そんな時のうめきが一番いい祈りなのだということだろう。
神さまどうか助けてください!、このうめきを聞いてください!
聞いた
20節にヒゼキヤに対する神の答えがある。「あなたがわたしにささげた祈りをわたしは聞いた。」
神はこの私に対してもそう言ってくれているのではないかと思った。大丈夫だ、お前のうめきを私はしっかりと聞いている、と。なんとも嬉しい言葉だ。