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礼拝メッセージより
「ヒゼキヤの宗教改革」 2011年2月13日
聖書:列王記下 18章1-8節
ヒゼキヤ
ヒゼキヤ王は聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。
聖なる高台とはもともとカナン地方で用いられた神々への礼拝所だったそうで、後にカナンへやってきたユダヤ人も利用して、列王記上3章にはソロモンがギブオンという所にある聖なる高台で千頭の生け贄を献げて神から知恵を授かったということが書かれている。
ユダヤ人たちは後にバアルやアシェラなど異教の神々も聖なる高台で祀ったそうだ。そこには神がやどるとされる木や石柱があって、建物や祭壇もあったそうだ。
ヒゼキヤ王はそんな聖なる高台を取り除いた。また民数記21章に書かれているモーセの作った青銅の蛇も打ち砕いた。イスラエルの人々がそのころまでにこの蛇に香をたいていた、つまり蛇を礼拝していたため、その蛇も打ち砕いたというのだ。
そうやってヒゼキヤ王はヤハウェ以外の神を一掃した。偶像崇拝を排除したということだ。そしてそのことが聖書にはとても評価されていて、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことを行ったと書かれている。
イスラエル滅亡
ヒゼキヤ王は歴代の王の中で初めてエルサレムから聖なる高台を取り除いたそうだが、何故それができたのか、それは何より北のイスラエル王国がアッシリアという大きな国に滅ぼされてしまったからのようだ。
北イスラエル王国の滅亡は紀元前721年で、大量の難民がヒゼキヤの国、南ユダ王国に流れ込んできたそうだ。そしてその中には預言者の弟子たちや宮廷の書記官などもいたそうだ。
北イスラエル王国は何故滅んでしまったのかということを考える中で、それまで預言者たちが語ってきたこと、つまり主に信頼するように、主のみを礼拝するように、という声に従わなかったこと、それが滅びの原因であるという結論になったのだろう。そのことが18章の12節にも書かれている。「こうなったのは、彼らが自分たちの神、主の御声に聞き従わず、その契約と、主の僕モーセが命じたすべてのことを破ったからである。彼らは聞き従わず、実行しなかった。」
だからヒゼキヤ王は偶像崇拝の場となっていた聖なる高台を取り除き、いつからか礼拝の対象となっていた青銅の蛇も打ち砕いた。たとえ赦しの象徴ともなっていた青銅の蛇さえも、それは飽くまでも神ではないのだということで、礼拝の対象ではないのだ、ということを示したのだろう。
そこで列王記ではヒゼキヤ王のことを、その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった、と最大限に評価している。
そして、彼は主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った。主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した。と書かれている。
信頼
しかし固く信頼するとはどういうことなんだろう。一片の疑いも持たないで頼っているようなイメージだけど、そんなことできるのだろうか。信頼すれば何でもうまくいくのだろうか。うまくいかないのは信頼してないからなんだろうか。
なかなか信頼できない。神を信頼するよりも、もっと目に見える物にすがりたくなる。お金だったり地位とか名誉、名誉はちょっと見えにくいけれど、あるいは学歴とか、そんな目に見える物に頼りたくなる。
教会で古い教会のキリストの像を、世界中の観光客が触っていくなんてことも聞く。触れていたいという気持ちがあるのかなと思う。でも像は飽くまでも像であって神ではない。その辺のことがだんだんと曖昧になって、青銅の蛇に香をたくというようなことになっていったんだろうと思う。
それだけではなく誰か頼れる人にすがりたくなるという気持ちもある。
誰それがこう言ったからこうする、偉い先生が言ったからこうする、親がこう言ったからするとか、しないとか思う。人は誰でも色んな人から色んな事を聞いて、案外誰かの言葉に従って生きているんじゃないかと思う。もちろん取捨選択して、少しずつ修正したりして、これが正しいことだと思っているわけだけれど、結局はそれも誰かから聞いたことなんじゃないかという気がしている。誰かから聞いた中で一番正しいと思うことを信じているんじゃないかと思う。では、いろんなことを聞く中で本当に正しいことはどれなのか、というとそれはなかなか難しい。結局はそれぞれが判断していくしかないような気がする。
そして私たちは色んな人から聞くだけではなく、神からも聞いている。どう生きればいいのか、何を大事にしていけばいいのか、それを自分の力で見つけ出すのはなかなか難しい。色んな人がいろんなことを言っているから、どれが本当なのかと考えてもなかなか分からない。でも私たちは神からの声を、神からの言葉を聞いていく。
神を信じる、神の声を聞き神に依り頼んで生きるというのは決断なんじゃないかと思う。信じるってのは信じている気持ちになっているというよりも、この神に聞いていく、従っていく、依り頼んでいくと決断することなんじゃないのかと思う。
だから信じるってのは疑いも迷いも持たないということじゃなくて、疑いも迷いもあるけれど、お前が大切だ、私はいつも共にいる、という言葉にすがっていくという決断、それが信じるってそういうことなんじゃないのかと思う。
神さまはいつも、私にすがりなさい、私に頼りなさい、と呼びかけておられるのではないかと思う。