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礼拝メッセージより
「エリシャの死」 2011年2月6日
聖書:列王記下 13章14-21節
最期
エリシャの死が迫ってきた。エリシャが聖書に登場するのは久しぶりなのだそうだ。何かの本では50年振り位だと書かれていたような気がする。
当時の北イスラエルの王はヨアシュという人で、エリシャの死が近いことを知って訪ねて来たと書かれている。王が訪ねて来るということは、エリシャをそれなりに尊敬していたということなんだろう。しかし13章11節では、このヨアシュは、主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れず、それに従って歩み続けた、と書かれている。預言者のことをある程度は頼りにしつつ、それでも完全に預言者に従うかというとそういうわけでもない、ということなんだろうか。
そのヨアシュは、死が近いエリシャに「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と泣いたという。これは列王記下2章12節で、エリシャ自身がエリヤが天に上っていく時に叫んだ言葉と同じである。
預言者が外国との戦いにおいては戦車や騎兵に匹敵するような力をもっていると思っていて、それを失うことを悲しんでいるということのようだ。
するとエリシャは王に、東側の窓を開けさせて矢を射るように言った。東側はイスラエルが対峙しているアラムの方角だそうだ。王がエリシャの言うとおりにすると、エリシャはこれでアラムに勝利する、滅ぼし尽くす、と言った。
続けてエリヤは王に、矢を持ってきて地面を射なさいと言ったところ、王は三度地を射ってやめた。そうするとエリシャは5回、6回と射るべきだった。そうしたらアラムを滅ぼし尽くしただろう、3回しか射なかったので3回しか勝てない、なんてことを言ったという。
これは一体なんなのか。注解書などにはヨアシュが矢の意味を十分に理解してないとか、不信仰だったからとか、やる気がなかったから3回しか射なかったと書かれているものが多い。けど後になってから3回だけだったから3回しか勝てない、5回も6回もすべきだったなんて言われても困るだろう。なんかひどい話しだなという気がする。
不信仰だったから3回しか射なかったのだろうか。6回やれと言われたのに3回でやめたなら不信仰と言われても仕方ないだろうけど、ただやれと言われたのに3回もやったんだから偉いじゃないか、と思うけど違うんだろうか。
今日の箇所では実はそのことに一番ひっかかっている。最初に窓を開けて射った時にエリシャが、書の勝利の矢、アラムに対する勝利の矢、なんてことは確かに言っている。そしてあなたはアフェクでアラムを撃ち滅ぼし尽くす、とまで言っている。なのに次に地面を射るようにと言った時に3回だけでやめたと言って、5回も6回もしてたら滅ぼし尽くしたであろう、なんて言っている。最初に滅ぼし尽くすと言ったのは何だったのかと思う。
ネットを見ると、一人だけ、そんなことはじめから言えよ、と書いてあったけど本当にそう思う。エリシャは怒って、5回も6回も射るべきだったと言ったと言うけど、それはないだろう、それはあんたが言っておかなかったからでしょう、と思う。
その後ヨアシュはアラムを三度打ち破ったと25節に書いてあるので、3回勝てた理由というか、3回しか勝てなかった原因はこれだったんだということかもしれないけれど。
一体この話しはなんなのだろう。ヨアシュが不信仰でやる気がなく真剣味がなかったというのならば、不信仰にならずに真剣に御言葉に聞きましょう、ということになるんだろう。でもヨアシュが殊更不信仰だとも思えずいい加減に矢を射ったとも思えない。だってわざわざ死にそうになっているエリシャのところに来て、わが父よと言って泣いてるのに。そのエリシャの言うことを適当に聞くなんてことあるんだろうか。
ヨアシュだってやれと言われて真剣にやったんじゃないかと思うんだけど。でもそれとエリシャの気持ちとのずれはあったということなんじゃないかと思う。というかうまく伝わらなかったということなんじゃないかと思うけど違うのかな。
それに矢を射るなんていう象徴的な行為によって将来が決定するなんてことはあるんだろうか。なんだかまじないでもするかのような感じがする。もちろん神の命令に従うか従わないかによって将来は変わってくるだろうけれど。
聖書教育に、私たちはこのやりとりから何を読み取っていけばいいのでしょうかと書かれていたけれど、何を受け取っていけばいいのかよくわからないというのが正直なところだ。どうか教えて欲しい。
そう思いつつ、矢を射る回数のことはよくわからないけれども、矢を射ることで勝利につながるということは、お前達はお前達のできることをやりなさい、私が命令したことを、私が託したことをやりなさい、後は私がする、勝利のためにお前がすべてのことやらなければいけないのではない、お前を勝利させるのは私の務めだ、と神が言っているのかもしれないと思うようになってきた。