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礼拝メッセージより
「神の業」 2011年1月30日
聖書:列王記下 5章1-19節前半
きっかけ
アラムはイスラエルの北の地方。異邦人の国。アラムの軍司令官ナアマン。彼は重い皮膚病を患っていた。彼の妻の召し使い、このイスラエルから連れてこられていた捕虜であった少女が、サマリアの預言者のところに行けばご主人様の皮膚病も治してもらえるだろう、と語ったことからこの物語は始まる。
ナアマンはそのことを王に伝え、アラムの王がイスラエルの王にナアマンを送りイスラエルの王が戦争をしかけてきたのではないかと勘違いした、なんていう話しも出てくる。
しかしそれを知った預言者であるエリシャが、自分のところへよこしてくれ、といってやっとナアマンは預言者のもとへとやってくる。
プライド
ところがエリシャはそのナアマンに対して、使いの者をやって、ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい、そうしたらあなたの身体は元通り清くなる、なんてことを言う。
そのことにナアマンは頭にきた。ナアマンのプライドがそれを許さなかった。そんな小さな川に行って7回も洗えだと、しかもエリシャ本人は来もしない。冗談じゃない、馬鹿にするのもいい加減にしろと思ったようだ。俺さまをどなたと心得る。天下のアラムの軍司令官ナアマン様であるぞ、てな具合に面子を気にしすぎていたならばこの物語は違った結果になっていた。そうしたらナアマンは癒されなかったのだろう。
ナアマンは重い皮膚病を癒すには難しい治療か、難しいまじない、あるいは長い祈りが必要に違いないと思っていたんだろうと思う。それに反してエリシャの命令は「ヨルダン川に行って7度身を洗え」というあまりにも簡単な話しを、しかも直接ではなく伝言してきただけだった。それも人をおちょくっているのか、と思わせるような一因だった。ナアマンにとっては簡単過ぎてその言葉通りにするのが難しかったのではないか。
神に従う
神の声に従うのは実はそういうことかもしれない。考えようによってはいかにも簡単な誰にでも出来そうなことかも。一見簡単なことじゃないかと思いつつ出来ないことが多い。
あるいはいかにも難しいことをすることこそが神に従うことと勝手に判断しているふしもある。あるいは誰にも出来ないようなことをすることこそが優れたことと思うようなことがある。誰にも出来ないようなことをすることが神に従うことだと思うようなところがある。誰にでも出来ることをしたって大したことではないように思う。
難しいことをした時にはいっぱい神に従った様に思い、誰でも出来ることをした時には大したことしてないように思う。こんなことぐらいでは神に喜ばれないのでは、なんて。でも本当は難しいとかやさしいとかは大した問題ではない。神の命令に、神の言葉に従うことこそが大事なのだ。
ナアマンは家来たちになだめられやっとその言葉に従った。そしてそこで皮膚病が癒された。とても簡単なことをしただけで癒された。
大事なところは神がしてくださるということのようだ。神がそうされるのだ。だから私たちは私たちの出来ることを、神が命令されることをしていくことが大事なのだろう。
問い
ナアマンはどうにか神の命令を行った。そして皮膚病が癒された。そのことを通して彼は主を信じるようになった。主こそ神であることを知った。そのことを喜んで贈り物をしようとした。エリシャが贈り物を受け取らないことをしると、ならばということでそこの土をくれと頼んだ。主を信じるようになった記念としてのものだったのだろうか。そこまでナアマンは喜んだのだろう。
ナアマンは皮膚病が治ったことだけを喜んでいる訳ではない。問題があった。彼は自分の主君がリモンの神殿でひれ伏す時の介添えをさせられるので、そこでリモンの神殿にひれ伏さねばならないということだった。まことの神でない神にひれ伏さねばならなくなる、ということだ。
主なる神を信じることでナアマンは喜んだ。しかし別の問題が起こった。そういった状況の中にいた。彼は主を信じるようになったことで自分の信仰を問い直した。それまで信じていた神をも問い直した。そして多分自分の行き方全てを問い直したのだろう。
日本ではあそこの神を拝めばいい学校に受かる、こっちの神を拝めば安産になる、なんてことを聞く。あそこの神はこれこれのご利益がある、という風に。ナアマンの信じ方はそういう信じ方ではない。これまで拝んでいた神、神々と一緒にさらに主なる神を拝むという仕方でない。ただ主なる神だけが神なのだ、という信じ方だ。
もしナアマンにとって主なる神がただ単に病気を治すというだけの神ということならば、自分の国の神も拝み、病気を治した神も拝むということになったとしても不思議ではない。しかしナアマンにとって主は病気を治すだけの神ではなかった。自分の生活すべてに関わり、自分の生きることすべてに関わる神であった。だからリモンの神殿でのことが問題となってきた。エリシャに会いに来る寸前まで行っていたリモンの神殿の神を拝むことが、ナアマンにとっては真の神に逆らってしまう大変な問題となってしまったのだ。
ナアマンにとって主を信じる信仰はそんなものだった。そして聖書の神はまさにそういう神なのだ。キリストは日曜日だけの神ではない。私たちの生きるをも、死ぬをも支えておられる神、私たちのすべてを支えておられる神なのだ。
その主を信じることでまわりとの、ナアマンにとっては主君との関わりが問題となってきてしまった。今の日本で教会に行くことが少なからず周りとの摩擦を生むようなものかもしれない。ナアマンはリモンの神殿でひれ伏すことをエリシャに対して赦して欲しいと頼み、エリシャもそのことをとがめてはいない。でもやはりそのことはどうでもいいことではない。こんな社会にいるんだから仕方ないことだ、ということで割りきれることでもない。なにかにひれ伏さねばならないようなこともあるかもしれない。しかしそれはやはり赦してほしいと願うようなことなのだと思う。仕方ないのだといってまわりに合わせていろんな神を拝む、そのことが平気になるとすればその方が問題だと思う。
変化
ナアマンはイスラエルに来ていくつかの変化があった。
重い皮膚病が治ったこと。そのことから主なる神を信じるようになった。そして随分謙虚になった。そんな変化があるようだ。
ナアマンはただ皮膚病を治すために来ただけだった。それが治ればそれで目的は達成できたはずだった。多くの贈り物をすることで皮膚病を治してもらおうとしてきた。しかしそこで彼が得たものは皮膚病が治されたということだけではなかった。主を信じるという信仰を彼は得た。もしかすると信仰を与えるために皮膚病が癒されたのかもしれない。
逆転
ナアマンは最初エリシャのところにやってきた時には、エリシャ本人が出てこないことに腹を立てていた。そしてヨルダン川にいって七回見を洗えというエリシャの命令にもなかなか従おうとしなかった。しかし病気を癒されてからまたエリシャのところへ言った時には、贈り物を受け取ってくれと頼んだり、リモンの神殿の件ではどうか赦してくださいと頼んだりするようになって随分と謙虚になっているような気がする。
ナアマンにとって主を信じるようになったことで逆転が起こったのではないかと思う。人と神との関係が逆転したのではないかと思う。きっとナアマンにとって、かつては神とは自分のために何かをするものであったのではないか。自分の病気を癒す、自分の何か足りないものを補う、贈り物をたくさんすればそれだけお返しをくれる、そんな自分の為に役に立つ、そんな神だったのではないかと思う。つまり神は自分の下にいて自分に思うように仕えるもの、という存在だったのではないか。だから結局は自分が上にいて神にも命令するような、神と取り引きするような気持ちがあったのではないか。
しかし主を知ることで実は神はそのようなものではなく、自分の都合に合わせて利用するものではなく、神によって自分が生かされている、神の下に自分が存在するということを知ったのではないか。それまで人間の力で何でも思い通りに行くと思っていた、自分たちがこの世のすべてを支配している思っていたのが、実は支配しているのは神であって、自分もその支配される側にいるということを知ったのではないか。だからこそこのように謙虚になったのではないか。その神に生かされていること、守られていることをナアマンは自分の皮膚病が治されるということを通して知ったのではないか。そしてそのことを喜び、神の中に生きているという安心感を得たのではないか。だからこそ謙虚になれたのではないだろうか。
ヨルダン川に行って七度身を洗うという神からのことばを聞いて実行することでナアマンは皮膚も癒され、心も癒されたのだと思う。神の支配の中に生きていることを知ることで平安を得、安心し、そこで謙虚になっていったのではないか。
神の業
神がここで業を行った。それは少女のひとことで始まった。少女はただ自分の知っている預言者のことを紹介しただけだ。そして預言者であるエリシャは神の言葉をナアマンに告げた。エリシャも神の言葉を伝えただけだろう。ナアマンはヨルダン川で7回身を洗った。ナアマンもそれをしただけだ。しかしそのことでナアマンの皮膚病はいやされ主なる神を信じる信仰を持った。ほとんどは神が行ったことだ。神がそこで働いておられる、そこでそれぞれに自分のできることを行ったことで奇跡は起こった。
私たちのできることも大したことではないかもしれない。しかし神がそこで働かれるならそこでは奇跡が起こる。神の業が起こる。私たちは全てを知らない、どのようになのか、どうしてなのか知らない。しかし神が働かれるところではそれが起こる。神の命令を聞いて、私たちの出来ることを通して神の働きに加えてもらおう。こんなこと大したことではない、誰でも出来ることだ、ということかもしれない。しかしそんなことを通して神は働かれる。
あれもできない、これもできない、と出来ないことばかりを数えることが多いけれど、これなら出来る、これも出来る、と出来ることを考えていきたいと思う。
私たちも神の支配の中に、神の手の中に生かされているのだから。神は私たちを通して、業を行おうとしておられるのではないかと思う。私たちは私たちができることをやっていって、神さまがどんなことをしてくれるのか、楽しみに待ちたいと思う。