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礼拝メッセージより
「エリヤとエリシャ」 2011年1月23日
聖書:列王記下 2章1-14節
エリシャ
列王記上19章16節にのところで、神はエリヤに対してエリシャに油を注ぎ、あなたに替わる預言者とせよ、と告げている。そして19章19節以下のところを見ると、エリシャが畑にいる時にエリヤが自分の外套を投げかけたと書かれている。これがエリシャを後継者に任命するという行為のようだ。
この時エリシャは12軛の牛を使って畑を耕していたとあることからかなり金持ちだったようだ。
エリヤの最期
そして今日の箇所はエリヤの死が近づいてきた時の話しだ。
エリヤは一人になりたかったのか、自分はベテルまで行くがエリシャにはそこにとどまるように、と語る。しかしエリシャは、主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません、と言って着いてきた。
ベテルに到着するとそこにいる預言者の仲間たちが、主があなたの主人を取り去ろうとしているのを知っていますかと聞くと、エリシャは、知っています、黙っていてくださいと答えた。
その後エリヤはエリコへ行こうとし、エリシャにそこに留まるようにというけれども、やっぱりエリシャは着いてきた。そしてエリコへやってくると同じようにそこの預言者の仲間たちがエリシャに、主があなたの主人を取り去ろうとしているのを知っているかと聞くと、エリシャはやはり、知っている、黙っていてくれ、と答えた。
その後エリヤはヨルダンへ行こうとし、はやり同じようにエリシャにそこにとどまるようにと言うが、エリシャも着いてきた。そして今度は預言者の仲間50人もついてきた。
そこでエリヤは、願う物を与えよう、と言うとエリシャは、あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください、と言った。二つの分とは2倍のものをということなのか。
話しをしながら歩き続けていると、火の戦車が火の馬にひかれて現れ、エリヤは嵐の中を天に上っていったという。
そこにエリヤの外套が落ちてきて、エリヤがしたようにヨルダン川の打って左右に分けてそこを渡った。
別れ
エリシャは不安がいっぱいあったんだろうなと思う。エリヤの死が近いことはきっと誰よりもよく分かっていて、だから今はどこまでも着いていこうとしたんじゃないかと思う。預言者の仲間から、エリヤがもうすぐ取り去られると知っているかと聞かれると、そんなことはよく分かってる、黙っといてくれと言ったのも、不安と焦りの現れだったんじゃないかと思う。それはエリシャ自身が、もうすぐエリヤがいなくなる、別れが迫っているということを、なかなか受け止められないけれどなんとかして受け止めようともがいているということなんじゃないかと思う。簡単に納得できるようなことじゃないから、自分で一所懸命に受け止めようとしているのにまわりからがたがた言ってくれるな、ということだったんじゃないかと思う。
エリヤに、あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてくれ、と言ったのは、これは長子が他の子どもの2倍を相続したことから、一番弟子としての力を願ったというような説もあるみたいだけれど、それよりも自分には何の力もないから、できるだけいっぱいの力を欲しいという願いだったんじゃないかと思う。
師匠の死が近づいてきて、それまで師匠について行っていれば大丈夫、師匠がいるから大丈夫と思っていたところに、いきなり自分が独り立ちしないといけないことになり、どうしようか大丈夫なのかと心配しているいるような気がする。
そしてエリヤが、わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いがかなえられる、と言ったように、エリヤが取り去られるのをエリシャがきっちりと見たことでエリヤには覚悟が出来てきたんじゃないかと思う。
葬儀は死を確認してその人と別れる儀式なんだと思う。エリシャもエリヤの死を確認して、それを受け止めて立ち上がっていけたんだと思う。そしてそんなエリシャにエリヤの外套が落ちてきた。不安をいっぱい抱えているエリシャに対するそれは神の助けの象徴だったんだと思う。
モーセ
なんだかモーセを思い出した。出エジプト4章20節にこんな言葉がある。「モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。」
ただの杖であったものが、20節では「神の杖」となっている。神の杖を持ってモーセはミディアンを出発した。この杖を握りしめてモーセはエジプトへと向かっていったのだろう。自分が逃げてきたところへもう一度帰って行くのだ。ユダヤ人たちを救い出すためという神の命令ではあるけれども、そのユダヤ人たちからの信頼もない。自分でどんなことでも切り開くという自信もなかったのだろう。そんな才能もあるかどうか分からない。あるのは不安ばかりだったのだろう。
頼るとしたらただ神にしか頼ることができない。神がついているというかすかな証拠、それが神の杖だった。この神の杖を握り締めていなければとても出て行けなかったのでは。この神の杖にもたれかかるようにしてモーセは出て行ったのだろう。不安を振り払っていさんで出発したわけではないだろう。不安を一杯抱えたまま、それでも神が共にいるという、それだけを希望に神の命令に従っていったのだと思う。
そして神はこのモーセを通して大きな働きをなされた。神はそんな不安だらけの人間を用いていった。
エリシャもいろんな不安をいっぱい抱えていたのだと思う。けれどもその不安を抱えたままそこで立ち上がって行ったのだろう。モーセにとって杖が神の助けの象徴だったように、エリシャにとってエリヤの外套が神の助けの象徴だったのではないかと思う。
大丈夫だ、お前が行くのだ、お前がやるのだ、神はエリシャにそう語っているかのようだ。
きっと私たちひとりひとりにも言われているんじゃないだろうか。私がお前を選んだのだ。大丈夫だ、私がついている。神は私たちにもそう言われているのではないか。