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礼拝メッセージより
「よろしく」 2010年12月26日
聖書:ローマの信徒への手紙 16章1-16節
フィベ
ケンクレアイはコリントから東に11kmほどの港町。パウロはそこのフィベという女性にこの手紙をローマに届けてもらったようだ。
フィベは教会の重要な働きをしていた。姉妹。「教会の奉仕者」は「執事」(口語訳)。
だから「主に結ばれている者らしく」彼女を迎え入れ助けるようにお願いする。
教会が違うが、私たちは兄弟姉妹。神の子ども同士としての兄弟姉妹である。たとえ教会は違っても、まったく見知らぬ人同士でも。
プリスカとアキラ
プリスカとアキラ。使徒言行録18章1-3節に最初に出てくる。
18:1 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。
18:2 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、
18:3 職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。
以前ローマに住んでいた。クラウディウス帝は紀元52年にユダヤ人をローマから退去させる命令を出した。その時プリスカとアキラ夫婦はコリントに移住した。そこでパウロと交わりを持ち、その後エペソに行き、皇帝の命令が無効になるとまたローマに帰った。
パウロは彼らがいのちがけで自分の命を守ってくれたと語っている。新約聖書の中に彼らの名前が6回も登場するそうだ。彼らは色々なところに住みながら、それぞれの場所で自分の家を開放し、多くの人を招き、多くの人を助け多くの人にキリストを伝えていたようだ。「異邦人のすべての教会が感謝している」というパウロの言葉はそういうことを意味しているようだ。
また5節の「彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく」とは口語訳では「彼らの家の教会にもよろしく」とある。彼らの家は教会でもあったようだ。
ルフォス
その後、24人の名前が登場するそうで、そのうち6人は婦人であるそうだ。
その中でどういう人か確定できる人は数人しかいないそうだが、13節にルフォスという人がいる。同じ名前がマルコによる福音書15章21節に出てくる。
15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
つまり十字架を負わされたシモンの子供がルフォスだ。マルコによる福音書でわざわざ子供の名前を書いているということはこの福音書を読む人たちに子供たちのことがよく知られていたからだろう。このローマの教会のルフォスかもしれない。そうだという説がある。
そうするとこのルフォスの父はイエスの十字架を担がされた人物ということになる。父のシモンはキレネ、これは北アフリカだそうだが、そこから過ぎ越の祭のためにはるばるエルサレムにやってきていた。あるいはこつこつとお金を貯めてやってきたのかもしれない。しかしそこで彼は十字架を負わされてしまう。死刑囚の十字架である。
待ちに待ったエルサレム旅行、楽しみにしていた過越の祭りに、こともあろうに犯罪人のために十字架を負わされてしまう羽目になってしまう。
彼の息子ルフォスがこのローマの信徒への手紙のルフォスだとすると、シモンはイエスの十字架を担ぐということからイエスと出会い、キリスト者になったと考えられる。多分とんでもないとばっちりを受けたと思っていたであろうことから、彼はイエスとの関わりを持つことになったということになる。
教会
不思議な因縁から、導きから私たちの教会は形作られている。いろいろな導きによって集められたものたちが教会を形作っている。それぞれに神に導かれた結果が今の教会である。
だからこそ、神に導かれた者同士として、見知らぬ教会の者を歓迎してほしい、同じ神を信じる兄弟姉妹として、自分に対してと同じように接してほしい、とパウロは願っている。
神によってそこに集められている、それが教会だ。
教会の目的
『一定の能力、財力、そして共通した価値観、そのような人々を集めれば、団体としての纏まりが良いわけで、団体を構成する時にそういう配慮をするのは当然でしょう。しかしそのような配慮を必要としない、従って雑然としたままでよい、というよりは雑然としたままでなければならないような団体があります。教会がそれです。教会とは、雑然としたものが互いにいたわり合って調和していく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何か事をする為の条件ではなく目的であることを忘れないようにしましょう。』(「神の風景」藤木正三)
調和するということは同じになるということではなく違ってないといけない。先ずは誰もが自分はここにいていいんだと思えることが大事なのではないかと思う。そのままを認め合うこと、尊重し合うことが大切なのだと思う。
愚痴をこぼしたら、そんなこと言うもんじゃありませんとか言いがちだ。そして親は大切にしなければとか、子どもはちゃんとしつけしなければとか、命を大切にしなければとか、人に迷惑をかけるなとか、そんな通り一遍の言葉を教会でも使いがちじゃないかと思う。
でも生きるってことは結構大変ことだから、一所懸命に頑張って生きていることを認め合うことが大切だと思う。そんな相手の生き様をどれほど見ているかということなんじゃないかと思う。一所懸命にやっている人に対しては、決まり文句みたいなこれこれこうすべき、なんてことはそうそう言えない。よくやってるよねえ、がんばってるねえとしか言えない。
相手を真剣に見る、相手のことを真剣に考える、それが愛することなんじゃないかと思う。教会ってそんな愛のある所でいたい。