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礼拝メッセージより
「互いに受け入れよう」 2010年12月19日
聖書:ローマの信徒への手紙 15章7-13節
喜び
クリスマスグッズを捜しに行くとサンタさんがいっぱいいる。クリスマスってサンタさんがプレゼントを持ってきてくれる日とイメージがあるみたい。何か貰うということは誰でも嬉しいことではあるけれど。
羊飼いたちに天使がメシアの誕生を告げた時に、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる、と言ったけれど、プレゼントを貰うということも確かに喜びであるからそれはそれでクリスマスらしいのかもしれない。
サンタさんからのプレゼントだけでなく、何か手に入れるということはうれしいことだ。前から欲しかったものを手に入れた時の喜びはひとしおだ。
反対に自分が誰かにちょっとしたものをあげたときに、ことのほか喜ばれたりすることがある。そうするとその人が喜んでくれることの方が自分が貰うことよりもうれしいんではないかと思ったりする。実は貰うことの喜びよりは、あげる方の喜びの方が大きいのではないかと思う。
イエスが、「受けるよりは、与える方がさいわいである」と言ったと聖書にある。実はそういうことかもしれないと思う。
受けるより与える方がさいわいである,というのは与えた方が喜びが大きいんだと言っているのではないか。自分の欲望だけを満たすよろこびよりも、相手を喜ばすことで自分も喜ぶという喜びの方がずっと大きいのだ、そっちの方が実はずっと幸いなのだ、といっているのではないか。
聖フランシスコによる「平和の祈り」というのがある。
ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
争いのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
悲しみのあるところに喜びを、
闇のあるところに光をもたらすことができますように。
ああ主よ、わたしに、
慰められるよりも、慰めることを、
理解されるよりも、理解することを、
愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
わたしたちは与えるので受け、
ゆるすのでゆるされ、
自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。
アーメン
私達の祈りは「神さま・・・をして下さい」、「・・・を与えて下さい」という祈りが多いのではないか。しかし本当は、私達は神のために何かをすること、誰かのために何かをすること方が重要なのではないか。重要と言うか、そっちの方が得られる喜びは大きいんじゃないかと思う。
キリストの生涯は、与える生涯だった。彼は、「私は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのである」と言われた。そしてその通り、ついにはご自分の命と引き換えに、私達に永遠の命を下さった。キリストの十字架の死は、私達を救いに入れるためだった。キリストは、私達を大いなる喜びに入れるために、自分がは最も大きな苦しみを負われた。
私たちの喜びがキリストの喜びであると言うことではないか。そういう風にキリストは私たちを見ているのでは。
受け入れる
だからパウロは、7節で「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」と言う。これは14章の1節で言われていた、「信仰の弱い者を受けいれなさい」ということと同じことだろう
ここで「弱い者」と言われたのは、ローマの教会において、野菜だけしか食べなかった人のことだった。ローマの教会では、肉を自由に食べる人は、菜食主義の人のことを理解できなかったようだ。彼らを弱い人間として、軽んじていたようだ。あいつらは古いしがらみにいつまでも縛られているだけだ、頭の固い馬鹿な奴等だ、というような見方をしていたのではないかと思う。そんな弱い者のことなどもうどうでもいい、と思っていたらしい。あいつらの考え方自体がおかしいのだからどうしようもないと思っていたのだろう。
しかしパウロはその人たちを放っておいては私たちの真の幸せはない、と言っているのではないかと思う。今の教会においてもいわゆる弱い者を放っておいては教会も喜びはなくなる、真の幸福はなくなる、互いに受け入れ互いに喜ばすことで初めて真の喜びも幸福もある、ということではないか。だからこそ、互いに受け入れなさいと言われているのではないか。
パウロは教会を人間の体にたとえている。体の一部でも痛んでいるときに、そこを放っておくことはできない。その一カ所の痛みによってなにもできなくなる、眠れなくなることもある。弱いところを放ってはおけないのだ。
だからユダヤ人だけの幸福もない、ユダヤ人も異邦人もともに理解し配慮し合う受け入れ合う,それがまたお互いの幸福ともなる。
しかもパウロはここで、それは「神の栄光のために」、と言っている。これは、互いに受け入れることは、神の栄光を現すことなのだ、ということだ。自分の喜び、私たちの喜びだけでなく、それが神の栄光を現すことでもあるというのだ。何も礼拝において讃美歌を歌ったり、お祈りをしたりすることだけではない。奇跡を起こすことでもない。弱い立場の人を理解し配慮することも神の栄光を現すことなのだ、とパウロは言います。
クリスマスはプレゼントを貰う日、というよりもプレゼントをあげる日と言った方がふさわしい。誰かに何かをしてもらうよりも、誰かのために自分が何かをすることの方がふさわしい。相手を裁くよりも、相手を受け入れることの方がふさわしい。何よりイエス自身がそうしてきた。そしてその自分に従うようにと言われている。
クリスマスの大きな喜びとは、ただ天から降ってくるような喜びではなく、私たち自身が与えることによって得られる喜び、受け入れることによって得られる喜びなのではないかと思う。