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礼拝メッセージより
「裁くな、侮るな」 2010年12月12日
聖書:ローマの信徒への手紙 14章1-12節
物知り
テレビによく物知り顔の専門家たちが登場する。冠婚葬祭とかで。葬式の時はこうしなければいけない、結婚式の時はこうしなければ、とかいう人。それを知らないことがいかにも常識のない奴だとでも言わんばかりのいい方をする。
しかもそういう時には決まって、冠婚葬祭の常識、なんとかの常識とか、いう言い方で説明している。それでクイズなんかしてみたり、でみんな間違っていたりするとその専門家という人がにんまりして、実はこうこうするのです、なんて言ったりする。みんなが知らないことは常識じゃないだろう、と思ったりしながら見ている。そして本当にそうしなければいけないのか、と思う。
会社に入った時の研修にも社会のマナーというのがあった。その中に結婚式の招待状の返事の書き方というのがあった。御住所の御を線で消して、御芳名を氏名に書き換える、宛名の誰それ行き、というのを様に書き換えるとかいうやつ。まだあったかな。でもそれ位しか覚えていない。
そう教えられるとそんなものかと思っていた。ところが自分の結婚式の時の返事の中にはそんな風にきっちりといわゆる常識通りの返事、テレビのクイズで満点となるような返事はそう多くはなかった。御住所も御芳名もそのままの返事もあった。神学部の教授たちは結構不正解が多かったような記憶がある。案外そういうのには無頓着な人が多かったのだろう。専門家に言わせると、常識のない教授たちなのだ。
でも自分がそんな返事を貰って考えた。それまではただ漠然とマナー通りにしないといけないだと思っていたけれど、御住所と御芳名を書き換えなくっても別にたいした問題ではないんではないかと。そんなことしなくてもどうってことないじゃないか、もちろんあいつは常識を知らない奴だと言われるかもしれないけれど、結局はそれだけのことじゃないかと思うようになった。そんな事に対して常識だの何だのと目くじら立てる必要はないんじゃないかと思う。
書き換えた方がいいと思う人はそうしたらいいので、それをしない人に対して文句を言う必要はないんではないかと思う。
ねばならない
ローマの教会にもどうも似たようなところがあったらしい。これはこうしなければいけないと言っている人たちと、そんな事にこだわる必要はないと言っている人たちがいたようだ。
異邦人キリスト者たちは偶像に供えられた肉なども気にせず食べていて特定の日を重んじるなんてこともなかったそうだ。一方ユダヤ人キリスト者たちは律法で禁じられていた物を食べず、特定の日を重んじていたそうだ。
これは食べてもいい、これは食べてはいけないとか、今日は何とかの特別の日だ、とか言う風にいろんな言を知っている人の方が偉い人のように思う。物知りの人、という印象がある。教会でもこれこれはこうするもんです、この日にはこれをするもんです、キリスト教ではそうなっているんです、なんて言われると、どうしてそうなっているのかよくわからんでもそれに従わないといけないように思ったり、その人が偉い人というか、信仰深い人の様に思ったりする。
ところがパウロは、野菜しか食べない人、特定の日を重んじる人のことを、信仰の弱い者たちと呼んで、宗教的なこだわりを持たずになんでも食べる者のことを信仰の強いものと呼んでいる。
テモテ一4:3 「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。」のように考えていたのであろう。
野菜しか食べない人は、どういう考えからか。ユダヤ教には肉やぶどう酒を食べないという考え方はなく、当時の外国の宗教の禁欲的な考えの影響かもしれない。
違い
教会の中に二つの考え方があった。しかし考え方の違う者たちがいることが問題ではなく、違うもの同士がいがみ合い、裁き合う。それこそが問題だった。
信仰の強いものが、弱いものを軽蔑し、弱いものが強いものを裁いていた、食べるものが食べないものを軽蔑し、食べないものが食べるものを裁いていた。
それこそが問題だったのだ。考えの違うものがいることが問題ではなく、軽蔑し裁いていたことこそが問題だったのだ。
4節でパウロは召し使いの話しをする。他人の召し使いを裁くとは何事か、と。召し使いは主人が裁くのだ。その主人がそれでいいと認めているのにどうしておまえは裁くのか、しかもその主人はおまえの主人でもあるのだ。神がおまえを立たせているように、あの人も立たせているのだ、と言う。
しかも食べるものも主のために食べ、食べないものも主のために食べない、そしてどちらも主に感謝している、と言う。どちらも主のためにして、確信を持ってそうしている、その人を主は立たせて下さっている、というのだ。
さらにキリストは死んでそしてよみがえらされた、そうまでして私たちを自分の民として下さった。命をかけて私たちを救って下さった。私たちはキリストの命によって生かされている者。そして自分と考えの違うあの人たちも同様にキリストが命をかけて救った者なのだ。
なのにどうして兄弟を裁くのか、と言う。キリストが命をかけて罪から救い出した兄弟をおまえはまた罪人にしたいのか、と言っている。あなたの兄弟ではないか、と言う。兄弟なんだと。
愛
今の教会でもいろんな意見がある。何を食べるとか飲むとかいうことも、礼拝にどんな服を着てくるか、教会で何をするべきか、しないべきか。私たちはいろんな立場のいろんな考えを受け入れ聞いていかねばならないのではないか、そうじゃない、とすぐ言いたくなる。
昔キリスト新聞に、どこかの牧師の息子だったか、今の教会に人が少ないのは、教会側が教えてやろうという姿勢があるからではないか、と書いてあった。そうかもしれない。俺こそが正しいことを知っている、俺が教えてやらねばという気持ちがあるのかもしれない。そして考えの違う者を排除して行っているのかも。
もちろんどんなことでもその通りでいいと言うわけではなく、それが主のためなのか、神に仕えるためなのかどうかは吟味する必要はあるだろう。そして神に感謝しているかどうか、それは自分自身のことでもある。神に感謝し、神に仕えるためにしていることなのか、そこはとても大切だ。そのための方法はいろいろある、その為なら方法、行動の違いは受け入れていかねばならない。
それが相手を愛することでもあるのではないか。神が立てられたものとして相手を受け入れていくことが愛かもしれない。
ある人がすごく怒っていた。父親が脳出血で半身不随の後遣症が残り、懸命にリハビリに励んでいたとき、熱心なクリスチャン婦人が見舞いにきてくれた。しかし、その後決まって父親は不機嫌になったり、落込んだりしていた。彼女はいつも、「神の試練」を語り、「神の訓練として耐えること」を語っていたという。励ましのつもりで語っていたのであろうが、心身共に弱っている病人にとっては耐えがたい言葉であったのだ。相手の心を無視した思いやりのない言葉は、その言葉自体は信仰の言葉であり、それ自体真理であっても、時に人を深く傷つけるものである。
最近よく思うのは、その言葉を使える人と使えない人がいるのではないかということだ。これは神の試練だ、というのは試練に遭った人が言えることであって、はたで見ている人は言えないんじゃないかと思う。苦しんだり悩んだりしている人自身にしか言えない言葉って結構あるような気がする。愚痴をこぼす人の話しを聞く時に、苦しいのはあなただけじゃない、みんなそうなんだ、もっと大変な人もいる、なんてことをつい言ってしまうけれど、逆に考えると自分が苦しい時にそういうことを聞いても元気は出ないだろうなと思う。そういうのって結構突き放している言い方だなと思う。お前だけじゃないんだからぐだぐだ言うなって言われてるような気もするし。だとするとそれも結構裁いているということなのかもしれないと思う。
結局相手のことをどれほど心配して大事に思っているかなんじゃないかと思う。話聞くのも面倒な人にはすぐに結論を言って終わりにしたいという気になる。そう言う時には、それは試練です、みんなそうだよ、と結論を言えばそこで話しは終わりになる。でも本当にその人のことが心配な時にはもっともっと相手のことを知りたいと思うような気がする。そうすると自ずから違った言い方になるような気がする。
お前は相手をどれほど大事に思っているのか、どれほど大切に思っているのかと問われているような気がする。
人それぞれに生き方も感じ方も違うわけで、それを乗り越えて受け止めていくことは大変なことだと思う。違うところをつついていたらきりがない。違いを乗り越えるのが愛なんだろうと思う。愛を持つこと、そのためにはやはり自分自身が愛されていることを知ることだろう。神に愛されていることをしっかり知ること、自分自身を、自分の存在自体、自分が今ここにいるということ、そのことを良しとしてくれていること、今の自分がすばらしいと受け止めてくれていること、そんな神の愛をしっかりと受け止めていくこと、そんな愛を持つことで初めていろんな違いを乗り越えていくことができるのだろうと思う。