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礼拝メッセージより
「根っこが大事」 2010年12月5日
聖書:ローマの信徒への手紙 11章11-24節
つまずき
パウロはユダヤ人が神を信じなかった、神を見失ったという話しを繰り返してきた。ユダヤ人は自分たちこそが神に選ばれ神に愛されている民だと思っていたことによって神から離れてしまった、しかしそれでユダヤ人が永久に神から離れてしまうということではない。今は神から離れているとしても、いずれはまた帰ってくる、帰ってほしいとパウロは語る。
今は神に背いている、しかしそのことによって異邦人に救いがやってきた、ユダヤ人の罪によって異邦人に救いがもたらされた。
また「ユダヤ人の失敗が異邦人の富となる」という言い方もされている。そしてパウロは失敗しているユダヤ人が皆救いにあずかるとすればどんなにかすばらしいでしょう、とも語る。結局ユダヤ人も異邦人も救われる、ということになればどんなにすばらしいでしょう、という。
さらにパウロはなんとかして自分の同胞、ユダヤ人を幾人かでも救いたい、という。ねたみを起こさせることによって。そして彼らが捨てられることが世界の和解になるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。という。彼らが受け入れられることは、死者が復活するようなもの、ほとんど死に掛けている民が生き返るに等しい、それほどすばらしいことだ、という。
接ぎ木
麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうである。そりゃそうだろう。根が聖なるものであれば、枝もそうである。麦の話しはそこで終わって今度はオリーブの話しになる。
栽培されているオリーブの枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたがその変わりに接ぎ木され、根から豊かな栄養を受けるようになった、という。それまで神につながっていたユダヤ人たちは折り取られ、異邦人がその代わりに接ぎ木された、そして根から豊かな養分を受けるようになった、という。
オリーブの木は本当は野生の木の根っこに接ぎ木するそうだけれど。
そこで異邦人たちに対して、ローマの教会の人たちに対して、だからといって折り取られた枝に対して、神から離れたユダヤ人に対して誇ってはならない、という。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなくて、根があなたを支えているのだから、と言う。
つまりあなたは神に支えられて生きているのだから、誇ることはない。神を信じるようになったからといって、そのことを誇ることではない、という。
高ぶるな
ユダヤが威張ったと同じ過ちを繰り返してはならない。つまり過ちを犯したユダヤに対して威張ってはならない。
高ぶるな、恐れかしこみつつ信ぜよ。神の慈しみにすがりついていなさい。それこそが私たちの信仰である。その信仰以外に私たちの立場はない。と言うのだ。
私たちは自分の力で神につながっているのではない。その資格があるからでもない、ただ神の慈しみによってなのだ。ただ神の憐れみによってなのだ。ただ神の恵みによってなのだ。そのことを忘れて自分がなにか偉いもの、特別なものにでもなったかのように錯覚するとそれはユダヤ人と同じになる。その結果もユダヤ人と同じ様に結局神を見失い、神から離れていってしまう。
ただ神の恵みによって信じているのでなければ、それは本来の信仰ではない、イエスの福音ではない、ということだ。
もし、神を信じていないものを見下しているとすればそれは間違った信仰であり、それこそがユダヤが神から離れた間違いだったのだ。
ルカによる福音書でイエスがこんなことを語っている。
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
根っこ
このファリサイ派の祈りを笑えない。馬鹿な奴だと言い切れないところがある。
神の慈しみにとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう、とパウロは語る。神を信じることを誇り、そのことで人を見下すならば、そういうものこそ神は切り取る、という。
そしてユダヤ人たちもその神の慈しみに頼るようになれば、不信仰にとどまらないなら、接ぎ木されるだろう、という。野生のオリーブでも栽培されているオリーブの木に接ぎ木できるのだから、もとからそのオリーブの枝だったものを接ぎ木するのはたやすいことだ、という。
神はユダヤ人を接ぎ木しようと待っている。ユダヤ人が神に向き直れば、不信仰を捨てれば、すぐに根っこに接ぎ木する。だからユダヤ人を悪者扱いは出来ない。不信仰者扱いできない。
ざまあみろ、おまえが悪いんじゃと言っていると、気がつくと逆になっているかもしれない。
いかに根っこにつながっているか、それが問題だ。豊かな養分を受けるには根っこにつながっていないといけない。そこからしか豊かな養分は得られないんだから。そしてどうやってその養分を私たちがもらえるようになったか、そこのところをわきまえていないといけないということだろう。
威張りたい、自慢したい、見下したい、そんな思いがいっぱいある。でもそうすることで舞い上がってしまうと根っこから離れてしまうのだろうと思う。根っこから離れるとやがて地に落ちてしまうしかない。
街中のクリスマスの飾りを見て、あれはうそのクリスマスだ、俺たちの方が本物だ、なんて威張ってても仕方ないと思う。自分がクリスマスを喜んでいるのかどうか、そこが大事なんだろうと思う。
自分が根っこにつながっているのか、そこから栄養と水とを貰っているのか、そこが大事だ。私たちは根っこから貰ってばっかりの枝なんだろう。
ありがたいことだ。