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礼拝メッセージより
「勝利」 2010年11月28日
聖書:ローマの信徒への手紙 8章31-39節
贈り物
♪ちいさい頃は神さまがいて、不思議に夢を叶えてくれる♪という歌があった。神は夢を叶えてくれる、何でも与えてくれる気のいいおじさん、のようなイメージがないわけではない。
子どもは欲しいものがあると親にねだる。お菓子を食べたいと言って買って貰う。あれも欲しいこれも欲しいとねだる。ねだってもお菓子がもらいない子どもはすねる。
でも本当の親は子どもがねだるたびにお菓子を与えたりはしない。本当に必要なものを与える。
お菓子がゲームになり携帯になり車になっていく。やがて大きくなっていくと親にねだってばかりもいられなくなる。そして今度は神にいろんなものをねだるようになる、のかもしれない。
神様に何かを要求して叶えられないことに怒っている自分は、欲しい時にお菓子をもらえなかった子どもと同じかな、と思う時がある。
この手紙を書いたパウロは、私たちの神は御子を賜る神、私たち全てのために、私たち全員のために御子を死に渡らせる、私たちのためにキリストを死なせる、そんな神であるという。だからすべてを賜らないはずがない。親が子に必要なものを与えるように、私たちに必要なものはすべて与えられる、そんな神であるというのだ。
訴え
この個所では裁判の場面を想像する。
私たちを訴えるのは誰か、私たちを裁くのは誰か。私たちを罪に定めるのは誰か。本来は神こそが私たちを裁く方、私たちを罪に定める方なのだ。
ところがその神が、神であるイエス・キリストが私たちのために執り成して下さるのだ。
最近裁判員裁判というのが始まって、裁判のこともわかっていないといけないのだろうけど、実際は裁判のことはあまりよくは知らないけれど、検察がこの人にはこんな罪があります、こんな風に法律に違反してますと訴えて、それに対して弁護人が、そんなことをしてないとか、こんな事情があったのだからその罰は重すぎる、とか言って弁護する、それを聞いて裁判官が無罪とか有罪とか、どの位の刑だとかを決めるのじゃないかと思っている。
小さい頃からそんなことしたらばちが当たるとか、お天道様は見ている、神さまは見ていると言われてきた。そんな風に神ってのは悪いことを隠せない、ちゃんと見ているという検察官のような、そしてお前はこんな悪いことをしてきたから地獄行きだ、なんて決めるような裁判官のようなイメージがある。確かに神こそがそうやって罪を告発したり刑を宣告する立場にいるんだろうけれど。
ところがパウロは、裁判官兼検察である神が、何と私たちの弁護人でもあるというのだ。私たちを訴え、私たちを裁くべき方が、私たちの弁護をされる。なんということか。
私たちはそんな裁判の被告となっているようなものだ。被告席にいる私たちに対して、こいつは死刑に価する罪人であるという。しかしそこでキリストが言うわけだ。こいつのために私たちは処刑された。こいつのために私たちが死んだ、こいつのための刑を私は受けた。だからこいつの罪の償いはもう終わっている。そうすると裁判官は、こいつは死刑に価するがキリストが代わりに死んだことによって償いは終わっている、よってこいつを釈放する、もう罪に問われることはない。これ以上の償いはもう必要ない。そんな風に言われているようなものだ。
キリストの愛から
キリストが私たちを弁護してくれたのは、私たちを愛しているからなのだ。大事に大事に思っているからなのだ。
そして誰も、どんなものも、キリストの愛から私たちを引き離すことは出来ないとパウロは語る。
どうしてキリストから引き離すことはできない、ではなくキリストの愛から引き離すことはできない、なのだろう。こんな言い方はあまりしない気がする。
ただキリストから引き離すことが出来ないのではない。キリストはいつも私たちと共にいてくれている。しかしそれはただ隣にくっついて座っているのとは違うのだろう。もちろんキリストはそんなふうにいつも共にいてくれているのだろうけれど、それだけではなくいつもいつも私たちを愛してくれていて、愛することを決して止めない、何者も愛することを止めさせることはできない、ということなのだろう。ただ隣にいるだけではなく、強い磁石でくっついているような、強い力が働いているような状態なんだろうと思う。キリストはそんな風に関心をもって、心配して、大事に思って、私たちをじっと見つめてくれているということだ。そしてそんなキリストの愛する思いを止めることのできるものは何もないという。キリストの愛から引き離すことができないというのは、そんなキリストの私たちとくっつく強い思いから引き離すことができないというようなことなんじゃないかと思う。
この手紙を書いたパウロは、艱難も苦しみも迫害も飢えも裸も危険も剣も私たちをキリストの愛から離すことは出来ないという。
そして死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない、というのだ。
苦しみ
しかしだからと言って私たちに艱難も苦しみもなくなる、と言うわけではない。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と言う。これは詩篇の44:23のことば。
私たちはいかにももうすぐ屠られる、殺されるように、死の危険にさらされている様なものである。艱難も苦しみも襲ってくる。
しかしパウロはこれら全てのことにおいて、私たちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めている、と言う。私たちを神から神の愛から、これらは引き離しそう。
艱難苦難に今にも押しつぶされようとしているようなもの。しかし私たちを愛して下さる神によって、イエス・キリストによって私たちは輝かしい勝利を収めているというのだ。口語訳では勝ち得て余りある、と言う訳。勝って勝って余りがあるほどに勝っているということだ。圧倒的な勝利を収めている、というのだ。
実際パウロの苦難は大変なものであったらしい。パウロがイエスと出会い、それは劇的な出会いであったようだが、それによりイエスに聞き、イエスに従う人生へと変えられた。そしてそれまでの、イエスをキリスト教を迫害していたものが、キリスト教を伝えるものとなった。しかしそうなったパウロから苦難がなくなったわけではない。
コリントの信徒への手紙二
11:23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。
11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、
11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
私たちが想像も出来ないような苦難に遭っている。神のために働いているのにどうしてこんなことになるのか、神に従っているのにこの苦しみは何なのか、こんな神を信じてなんかいられるか、と言いたくなりそうな気がする。
しかし、パウロはそんな苦難に遭いながらも私たちは勝利を収めている、というのだ、それまでのどんな艱難でも、パウロをイエスから、イエスの愛から引き離すことはできなかったのだ。
勝利
神を信じたらこんなことがありました、こんな良いことがありました、という話しを聞く。こんな病気が治りました、どこそこに合格しました、収入が増えましたというようなことを聞くことがある。確かにそんなこともあるだろう。でもだからそんな自分に都合のいいことが起きるから、都合の悪いことが起きないから私たちは神を信じているのだろうか。私たちが欲しい時にいつもお菓子を与えてくれるから神を信じているのだろうか。
パウロはイエスに従うようになってから都合の悪いこと、大変な苦難をいくつも経験してきた。イエスに従うことで余計に苦しい思いをすることになったのかもしれないと思う。それなのにパウロは輝かしい勝利を収めているというのだ。愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めているというのだ。
この勝利とはいったいなんなのだろう。パウロの言う勝利とは、金持ちになるとか有名になるとか地位が高くなるとか、そんな自分の望むようなことが次々と起こることではない。パウロにとってはキリストに愛されていること、ずっと愛してくれていること、自分の弁護人となってくれていること、それこそが勝利であって、ただそれだけのようだ。何かが起こるとか起きないとか、自分の願いが叶うとか叶わないとか、そんなことは一切眼中にないようにさえ思える。だからこそ苦難にあっても勝利していると言えるのだろう。何があろうと神が自分の味方となって徹底的に愛してくれていること、それがパウロにとっては最も大切なことであり、それだけできっと十分なのだろう。
そしてそれだけで十分なほど私たちも愛されているのだ。この世のあらゆるものが止まらせることができない、あらゆるものが引き離すことができない、キリストはそんな愛し方で私たちをも愛してくれているのだ。ありがたいことだ。