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礼拝メッセージより
「恵みの下に」 2010年11月7日
聖書:ローマの信徒への手紙 6章1-14節
疑問
5章20節には「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と言われている。では、どういうことになるのか、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきか。」これは当然の疑問。
罪がある方が恵みが増すとすれば罪が多い方がいい、罪を犯し続けることがいい、となってしまう。そのように考える者もいたらしい。
決してそうではない、とパウロはいう。
バプテスマの問題。
私たちはバプテスマを受けた。キリストに結ばれるためのバプテスマ、それはキリストの死にあずかるバプテスマ、しかしそれだけではない。キリストが父なる神に復活させられたように、私たちも新しい命に生きるため。
キリストと共に死に、キリストと共に復活する。
罪に支配されていた命は死に、キリストとともに生きる新しい命に生きる。
新しい命に生きる、何かが少し変わるという程度ではない、すっかり生まれ変わるということ。
でもバプテスマを受けたからといって私たちには何も変わりはないように思える。バプテスマを受けたら途端にいい人間になるなんてことはない。途端に勇敢な人間になるなんてこともない。
じいちゃんやばあちゃんになる時に似ているような気がする。
孫が生まれたらじいちゃんやばあちゃんになるわけだけれど、じいちゃんやばあちゃんはそうなるためには自分は何もしない。ただ孫が生まれたからなる。じいちゃんやばあちゃん本人は何も変わらない。でも孫が生まれた瞬間からじいちゃん、ばあちゃん、なのだ。
同じように罪が赦されるための私たちは何もしていない。なのに赦される。赦されたものとされている。罪に対して死に、新しい命に生きるようにされているのだ。
自分は何も変わらない、自分は何もしていない、でも新しい命に生きるようにされているというのだ。
キリストとともに死に、キリストとともに生きるようにされている。だからそれにふさわしく生きなさい。
だから
これこれこうである、だからこれこれしなさい、という順序。聖書はいつもこの順序。ただ命令しているだけではない。私はあなたを愛している、だからあなたがたも愛し合いなさい、という風に。
また、この順序が逆ではない。つまりこれこれしなさい、そうすればこうする、という順番ではない。互いに愛し合いなさい、そうすれば私はあなたがたを愛する、というのではない。
あくまでもあなたがたを愛する、が先に来る。
ここでもそうだ。神はこうなさった、というのが11節まで、こうしなさいというのは12節から。
あなたがたは律法のもとにではなく、恵みの下にいる、と言われている。
律法の下にいるときは、これはだめ、これもだめ、これもできない、私はだめ、あの人もだめ、私は罪人、あの人も罪人、という見方になる。そういう考え方は律法の下にいる考え方。
子どもと親の関係に似ているような気がする。
子どもが生まれて親になったのに、自分は駄目だ、あれも出来ない、これも出来ない、とそのことばかり考えて悩んでばかりいても始まらない。子どもが生まれてから、もうちょっと待ってくれ、もう少し立派な親になるまでそのままでいてくれ、俺は親にはふさわしくないからやっぱりなれない、と言われたら子どもはたまらない。まずは親であることを認めることから始まる。
確かに親としてふさわしくないのではと考える。親というものはこういうものだ、ということを聞くと自分は親失格だと思うこともある。しかしそれは次の問題だ。どういう親であるべきか、ということは次の問題だ。第一は親であるということだ。親とされているということだ。子どもがいるということは親なのだ。親としてふさわしくあろうがなかろうが子どもがいるということは親であるということだ。ふさわしくないから親ではない、ということにはならない。親であるから、次の問題は親としてどうするのか、ということだ。親であることを受け止めるところから、親として生きることが始まる。そうしてだんだんと本物の親となっていくのだろう。
キリストとの関係
私たちも、キリストと共に死に、新しい命に生きる、と言われている。新しい命に生きるなんて言われても、私は本当にそうだろうかと思うのではないか。新しい命に生きるようにされたと言われるけれど自分は何も変わっていない、いい人間になったわけでもない、私はそんなものにふさわしくない、と思うのではないか。
しかしそうされている、と聖書は断定しているのだ。神によってそうされているというのだ。孫が生まれてもじいちゃんばあちゃん自身は何も変わらない。自分自身は何も変わらないけれどもじいちゃんばあちゃんになっている。同じように私たちは何も変わらなくても神によって新しい命に生きるようにされているのだ。罪の下にいるのではなく、神の下に生きるものとされたのだ。神がそのようにしたのだ。神がそうしたから神の下に生きるように、新しい命に生きるようにされているのだ。
変わった?
しかし私たちは、私は駄目だから、私は何も出来ないから、と自分の駄目さを嘆くことに忙しい。まさに私たちは駄目で何も出来ない。しかしその私たちを神は自分の支配の下に入れてくださっているのだ。新しい命に生きるものにしてくださっているのだ。
私たちは自分はふさわしくないとか駄目だとか思う、しかし神はふさわしいと見ているのだ。親になったのだから親として生きなさいと言っているようなものだ。私は親にふさわしくないとか自信がないとか言ってもそれで親でなくなるわけではない。子どもがそこにいる限り親であることに変わりはない。
神がお前は新しい命に生きる者とされた、というからにはそうなんだ。神が決め神がそうしたことなのだ。私たちの判断で撤回されるわけではない。神が自分の恵みの下に生きる者とされたからにはもうそれで決まりなのだ。もうされているのだ。だから恵みの下に生きる者のように生きなさいというのだ。
恵みの下に
私たちは神の恵みの下にいるのだ。神の恵みの下に生きるようにされたのだ。だから罪の中にとどまるように生きるのではなく、神の与えられた新しい命に生きるようにされた者として生きなさいと言われる。
罪の中にいることというのは、神に背いていること、そしてそれは神の声ではない声を聞くことなんじゃないかと思う。その神以外の声とは、お前は駄目だ、まだまだ駄目だ、そんなことでは認めないぞ、という声なんだろうと思う。そしてそんな声に怯えながら生きること、それが罪の中にいるということなんじゃないかと思う。
恵みの下にいるとは、神を向くこと、神の声を聞いて生きることなんだろうと思う。神の声は、お前は駄目だではなく、お前が大事だ、お前が大切だ、大丈夫だ、できる、私がついている、そんな言葉なんじゃないかと思う。
おまえはおまえでいい、おまえはおまえのままがいい、おまえはおまえじゃないといけない、おまえは最高だ、神さまってそう言われているような気がする。そう思うとなんだかほっとして元気になるような気がする。
でも誰かの、そんなことでは駄目だ、というひと言ですぐに落ち込んでしまうのが現実だけど、でも落ち込んだ所にもきっと神さまの声は届いている。そこでまた神の声を聞いていけたらいいなと思う。