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礼拝メッセージより
「和解」 2010年10月31日
聖書:ローマの信徒への手紙 5章1-11節
敵
「外に出れば男には7人の敵がいる」なんてことを聞くことがある。女にも敵がいる、という話しもあるけれど。
世の中は敵だらけなのか。自分の周りは敵だらけなのか。自分の国のまわりも敵だらけなのか。そう思えるような面もないわけではない。
昔ある政治家が、自分たちが強姦されないために強くなるべきだ、というようなことを言っていたらしい。悪いことをしたらひどい仕返しをされるかもしれないという気持ちがあれば相手も何もしてこないだろう、だから自分たちも強い武器を持つべきだ、というようなことを言っていたようだった。
その人は、自分だって誰にも何もいわれなければ強姦する、強姦しないのは、それをしてしまったら自分が罰せられるから、自分にひどい仕返しがあるからそれをしないだけだ、と言っていた。
まわりは敵だらけのようだ。みんな敵らしい。その敵をいじめないのは、ただそれをしたら仕返しがこわいからということのようだった。周りが敵だらけと思いつつ生きるということは大変なことだろう。いつどこから誰が襲ってくるか分からないなんてことになったらずっと緊張したままで、用心したままでいないといけない。
神
10節には「敵であった」なんて言葉がある。神に対しても敵のように思うこともある。敵というか、神も自分に悪さをしかねない存在と考えることもある。決められたとおりに供え物をしていないと、決められたとおりに拝んでいないと機嫌を損ねて悪さをするのではないか、そんな悪さをしないために一生懸命に拝むなんてことになると、神に対しては隠れることもできないので余計に大変になりそうだ。
一生懸命に拝む者、熱心に崇拝する者の中には、神に対して敵意と恐怖心を持っていることもあるそうだ。神は敵だからこの敵を怒らせないために、なだめておくために、鎮めておくために、何かをする。そういう人の熱心さは、そうしないと悪いことが起こるのではないかという恐怖心から出ているらしい。悪いことが起こるのは自分が足りないからだ、信仰が足りないからだ、ということになる。たまにいいことが起こるとそれも自分に神を喜ばすような信仰があったからだ、この信仰心をなくさないように努力しなければ、ということになるように思う。敵が人ならば逃げることもできる、しかし神が敵になってしまうと逃げようもない。
誇り
パウロは、今神とわたしたちはそういう敵対関係にあるのではない、という。むしろ逆に神との間に平和を得ている、という。それもキリストによって平和を得ているという。神と私たちの関係は平和な関係なのだ。かつては敵であったが、御子の死によって和解させていただいのと言っている。
敵ではなくなったから、味方になったから、神は私たちを懲らしめようと待ちかまえているわけではない。私たちが熱心に拝まないからといって罰を与えようとしているのではない。私たちがいいことをしているときにはいいものを与え、悪い奴には罰を与えようとして待ちかまえているのではない。
8節では、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました、と告げている。神から私たちに愛が示されたのだ。それも私たちがまだ罪人であったときに。私たちがいい人間になったご褒美として愛してくれるとか、いいものをくれるのではない。
神なのだから、悪い人間を罰してもよかったはずだ。自分の意向に添わない人間に罰を下してもいいはずだ。しかし神はそうしなかった。神は人に対してそういう敵対する関係を持とうとはしなかった。私たちを、罰を与える対象としないことにしたというのだ。9節では、私たちはキリストの血によって義とされた、と書いている。キリストが十字架にかかり死なれたことで、神は私たちを義とされた、正しい者とされた、罰を与える対象とはみなくなったというのだ。本当は罰を与えられても仕方のないような私たちだが、そういうふうには見ないことにした、と言うのだ。イエス・キリストの十字架によって義とされのだ。それも私たちが神に従おうとしたからそうしたのではなく、敵であったときにすでにそうしたというのだ。
イエス・キリストによって、イエス・キリストの十字架の死によって、神は私たちと和解してくださった。パウロはそのことが誇りであるという。神は敵ではなくなった、味方になったのだ。それも私たちがなにかをすることなしに、神の方でそうして下さった。ただイエス・キリストの十字架の死によってそうして下さっていた、だからこのことこそが自分の誇りだ、とパウロは言う。
人は自分の持ち物を誇ることが多い。こんな立派な家を持っている、こんなに多くのお金を持っている、こんなハンサムな夫を持っている、きれいな妻を持っている、こんなにいい子どもを持っているなどなど。もし僕が大きな教会の牧師だったら、こんなに多くの教会員をもっている、こんな大きな会堂を持っている、こんなにいっぱい給料を貰っている、と誇りそうだ。
しかしパウロは、パウロが何を持っていたのかは分からないけれど、自分の持ち物を誇らない。イエス・キリストを、イエス・キリストの救いを誇る。イエス・キリストこそが誇りなのだ。自分がすごい信仰を持っているというようなことも誇らない。神を誇り、神から与えられるものを誇るのだ。神の栄光にあずかる希望を誇り、苦難をも誇るという。
誇り
パウロは現実が何もかもうまくいくことを、自分の信仰によって、すべてが自分の思い通りにいくことを誇るのではない。苦しみがないからではなく、悲しみがなくなったからではなく、苦しみも悲しみもある中でなお生きる力を与えられていることを誇る。結局は自分の状態がどうかと言うことが問題ではなく、そこにイエス・キリストがいて、自分と共に歩いてくださること、それこそが問題のようだ。そしていつもイエス・キリストが自分とともにいてくれることこそが彼の誇りであり喜びなのだ。
私たちは苦難からの解放こそが救いではないのかと思うことが多いのではないか。苦しみの絶えることのないこの世俗を離れたユートピアに住むことが究極の救いではないのかと思う。それができないまでも、何とか苦しみにあわず、何とか災難に遭わないこと、それが救い、そのために宗教がある、と思う。
いろいろと自分を苦しめるものから何とか逃げたいと思う。どうにかして逃げたい。ところがうまく逃げていられるときはいい、しかし完全に逃げ通すことができないのが人生。しばらくの間は逃げられても、いつまた災難が起こってくるか分からない、今度はうまく逃げられるかどうか分からない、とびくびくしている。そして案外逃げるほど余計に災難は追っかけてくるように感じられる。
苦難
本当の救いとは苦難にあっても災難にあってもそこで生きていく力を持つことではないかと思う。
こどもが危ない目にあっては大変だからといって何もかも親が先回りしてしまうと言うことが決していいことではない、ということはよく言われているがそれと似ているような気がする。
こどもに怪我をさせないためにあらゆる危険な目に遭わせないというのはよくないことだ。何に対しても危ないからやめなさい無理だからやめなさいと言っていると子どもは何に対してもびくびくする人間になるそうだ。『一生びくびくして過ごすよりも、一度の骨折の方がよい』というような言葉を聞いたことがある。けがをさせないことよりも、危険な世の中を生きるすべを教えることこそが大事なことだ。こどもを自分の力で生きることが出来るようにすることこそ大事なのだろう。
世の中には苦難がある。苦難のある世の中で生きる力を与えることこそが大事なのだ。苦しみをなくすことよりも、苦しみの中で生きる力、苦しみを耐え忍ぶ力を与えることこそが大事なのだろう。
パウロは神のことを伝えて外国まで出かけていくような人間だった。信仰深い人だったのだろう。信仰深くても苦難の連続であったようだ。誰にも負けないような苦難をいろいろ経験してきたようだ。
たとえば、二コリント
11:23 ・・・苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。
11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、
11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
相当な苦難に遭っている。しかしパウロは苦難のないことを目指しているわけではない。苦難のないことがいいことだとも言わない。
パウロは苦難を誇るという。苦難は忍耐を忍耐は練達を練達は希望を生みことを知っているからだという。希望は私たちを欺くことがない、ということを知っているからだ、という。何でそんなことがいえるのかというと、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(5節)というのだ。
ある人がドラえもんの話しをしていた。ドラえもんに出てくるのび太は困ったことがあるとすぐにドラえもんに助けを求め、ドラエもんはいつものび太を助けるけれども、結局はのび太を駄目にしているのだ、と。
苦しい時、大変な時、私たちも神に助けを求める。それでもなかなか解決しない時には、神は何もしてくれなかった、必死で祈ったのに何もしてくれなかった、と言うことが多いのではないか。
パウロもきっと祈っただろう。しかし彼の人生は苦難の連続だったようだ。日本では、そんなときには大概、神も仏もない、というような言い方をする。なかなか解決しない時、苦しみがなくならない時、自分の都合の悪いことが次々起こるようなときには、神はいないとか、神は見放したとかいう。
しかしパウロはそこに神はいないと言っていない。苦しみに会うことが神がいない証拠だとは言わなかった。むしろその苦難の中で神の愛が心に注がれていると言っている。
「愛」が注がれていることによって人は生きていける。愛がなければ生きていけない。生まれたばかりのこどもに全く声をかけないとこどもは死んでしまうそうだ。嘘か本当か、実際にそんな実験をしたことがあると聞いたことがある。
イエスも人はパンだけで生きるのではない。と言われた。神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる、と言われた。パウロがここで言う神の愛、というのと同じことだろう。
神は私たちに愛を注いで私たちが生きるようにしてくださっている。もうすでに生きることが出来る力を与えてくださっている。
神の愛とはひとり子イエスを十字架につけるほどの愛だ。ただ言葉だけ愛しているというのではない、その言葉が本物であった証明がイエスの十字架だろう。自分の側が痛い思いをして、神の側が苦しい思いをして私たちを生かそうとする愛なのだ。
そしてその神の愛がこころに注がれている、だからパウロは苦難を喜ぶことができ、苦難を誇ることができるのだろう。
神が愛を注いでくださったからこそなのだ、もうすでに注がれているからなのだ、完了形、注がれている、
苦しむ力
だから苦難は忍耐を忍耐は練達を練達は希望を生む、そのことをパウロは「知っている」という、それはパウロが体験したことなのだ。ただ単にそういうふうに教えられたとか言い伝えられているとか言うことではなく、自分自身が体験して知っている、ということなのだ。
苦しみを耐え忍ぶことで初めて知ることはいっぱいある。苦しみ抜いたというか苦しみ抜かされたというか、苦しみの中にずっといたことでパウロは神の愛を知ったのではないかと思う。
実際に体験しないと分からない事っていっぱいあるけれど、神の愛ってのは苦しみの中にずっといることで初めて分かることかもしれないと思う。
私たちは苦難から早く解放されたいと願う。そして苦難がなくなったと喜び、なくならないと嘆く。私たちはそこに苦難があるかないかを問題にしがちなのかもしれない。苦難ばっかりに捕らわれているのかもしれない。
パウロはそこに神がいてくれることを問題にしているような気がする。神が共にいてくれている、神が愛してくれている、神と和解していることを喜び誇っている。神との関係こそが問題なのだ。神との関係を持っていることこそを喜んでいる。
実際にはパウロはとてもつらい苦難の連続だったようだ。しかしパウロにとっては神との関係は崩れることはない。むしろ苦難を通して神の愛を知っていったかのようだ。
神の方が私たちの手をしっかりと捕まえていてくれているからだろう。私たちの側に握る力がなくなったとしても、神の方が握りしめてくれているからだろう。だから苦難にあってもそれを耐えることができ、それさえも誇るというのではないか。何があろうと何が起ころうと神は決して見放しはしないことをパウロは知っているのだ。
苦しみにあっても悲しみにあっても、神は私たちと共にいてくださっているのだ。神が私たちに与えてくれるのは、苦しみからの解放よりも、苦しむ力、苦しみを受け止め耐え忍ぶ力なのかもしれないと思う。
私たちはキリストを通して神と和解させて頂いて言る。神は敵ではなくなった。そして完全に、圧倒的に私たちの味方となってくれている。その神がいつも私たちとともにいてくれている。私たちが苦しむ時にも、嘆く時にも共にいてくれている。そこにこそ私たちが苦しみの中を生きる力が湧いてくるのだと思う。