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礼拝メッセージより
「分からない」 2010年11月14日
聖書:ローマの信徒への手紙 7章14節-8章2節
律法
パウロは律法の問題を説いて来て、自分は律法というのは神様が良かれと思ってわれわれ人間に与えたものなのだから、律法それ自体は聖であり、正しく、善なるものであることはわかっているという。しかしその善なるものが、わたしにとって、わたしを死に追いやることになってしまったと言う。そして、「わたしは自分のしていることがわからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである」という。
さらに、自分の内には、肉には善が住んでいない、そのために自分の望む善は行わず望まない悪を行っている、そうしているのはわたしではなくわたしの中に住んでいる罪なのだ、と言う。
そして、善をなそうと思う自分にはいつも悪が付きまとっている、「内なる人」としては神の律法を喜んでいるけれど、五体には、それは肉ということなんだろうけれど、そこには罪の法則があって、わたしをとりこにしているという。
自分自身の中に二面性がある。善を望む自分と、それでも悪を行ってしまう自分がいるということのようだ。
しかしこれは一体何を言っているのかよく分からない。ネットで他の人を説教を見たりしてけれどやっぱりよく分からないけれど、ある人がこんなことを書いていた。
依存症の人がそれをやめたいのにやめられないのと似ているのかもしれないと書いていた。アルコールとか薬物とか、やめなきゃいけないと頭では分かっているけれどもついつい手を出してしまう、そんなことと似ているのかもしれない。
あるいは、「われわれが何か寄付をしようとするときに、寄付をしてある困っている人を助けたいと思うわけですが、その事自体は善であります、いいことなのです。その時、同時にわたしの中におれはなかなか良いことをしているぞと、自分のことを誇る気持ちが働きだす、そうなると、もうまるでその人を本当に助けたいのか、それともこれはただ自分の心を満足させたいためだけの行為なのかと考えてしまう・・・。つまり律法を守ろうとするとき、それによって神に従い、人を愛そうとするわけですが、その時そのわたしの心にもう自動的に自分を神に対して、あるいは人に対して誇ろうとする法則が、まるでシステムのように働きだすということであります。」と書いていた。
21節に、善をなそう思う自分には、いつも悪が付きまとっている、と書いてあることから考えると、こういう自己満足の思いというようなものを捨てきれないというようなことを言っているのかもしれない。
誰かのため、誰かを助けるため、という思いは高尚で立派だけれど、案外人間には純粋に高尚な思いだけを持つことはやっぱりできないのではないかと思う。慈善活動をするにしても、全く邪念のない思いになることはやっぱりできないような気がする。だから邪念もあるということを意識しつつやればいいんだと思う。
ここでこんな活動をしてきました、なんてことを話す時によく、「自慢じゃないですが」とか「ただただ相手のことを思って」という風に、自分には全く邪念はありませんというようなことを殊更に言う人がいる。そういうのを聞いていると、それを言うということは自慢したいのかな、本当は自慢したいけどそうしたら恥ずかしいから人から誉めて欲しくてしかたないのかななんて思う。
正直に、自慢なんだけど、と言えばいいじゃないかと思う。自慢もあるけれど、自己満足もあるけれど、やっぱり相手のことを放っておけなくて、というのが正直なんじゃないかと思う。
パウロはそういう自分自身の内面のことを正直に見つめているような気がする。自分の罪についてものすごく神経に見つめているんだろうと思う。
自分自身が罪に支配されている、というか罪に誘導されて生きているかのような状態にあることを冷静に見つめている。
律法は本来神と人間との関係を正常に持つためのものだ。だから律法自体は聖なるよいものだ。しかしその律法によって、律法を守れる自分を誇り、律法を守れない者を裁いてしまう。
そんな罪をぬぐい切れない自分の惨めさをしっかりと噛みしめているのだろう。
救い
24節で「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と語ったすぐ後に、というか唐突に25節では「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」と語る。
自分の罪深さを知る程の、却って神への感謝は大きくなる。自分の惨めさを知る程に、その自分を愛してくれる神への感謝は大きくなる。
教会では神は私たちを愛してくれると簡単に言うけれど、それは全然当たり前のことではないのだろう。こんな惨めなものを大切に思ってくれるなんてきっと異常なことなんだろうと思う。こんなだらしない自分を、こんな駄目な自分を大切に思ってくれることはとても尋常なことではないのだ。
しかし私たちは、キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則によって、罪と死との法則から解放されている。罪と死との法則から完全に解放されている訳ではないらしい、けれども私たちはすでに霊の法則に支配されているのだ。
だから私たちを愛によって支配してくれているこの神を見上げて、神に従っていこう。