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礼拝メッセージより
「命を与える神」 2010年10月24日
聖書:ローマの信徒への手紙 4章13-25節
律法
ローマの教会ではユダヤ人たちと異邦人たちの間で諍いというかいざこざというか、考え方の違いがあった。イエス・キリストを救い主と信じることにおいては同じでも、ユダヤ人たち律法を大事にする立場から異邦人も割礼を受けないといけないと主張しており、異邦人たちはそんなものは必要ないと主張していたらしい。
パウロ自身はユダヤ人であるので赤ん坊の頃に割礼を受けていたはずである。しかし彼は異邦人に割礼を受けさせる必要はないと主張する。
アブラハム
4章ではパウロはアブラハムの話を始める。3節では「聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。」と語り、そして9節後半からでは、「わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どうのようにしてそう認められたの出唱歌。割礼を受けたからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。」と言っている。
ユダヤ人たちの偉大な先祖、ユダヤ教の偉大な父祖であるアブラハム。割礼を初めて受けたのも時であったわけで、それはアブラハムと神との永遠の契約のしるしだった。
その当のアブラハムが義とされた、つまり神から良しとされたのも、割礼を受けたから良しとされたのではなく、割礼を受ける前に良しとされたのだと言う。神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束したけれども、そのことを信じたことでアブラハムは義とされた、良しとされたという。
そう信じたからアブラハムは神の命令に従って割礼を受けた。信仰と割礼は一体のような気がするけれど、パウロは割礼を強要するユダヤ人たちに対して、アブラハムが義とされたのは割礼を受ける前だ、だから大事なのは信仰なのだと言っているようだ。
ユダヤ人たちは割礼の大切さを主張するあまりに、割礼という形にばかりこだわっていたのかもしれないと思う。兎に角割礼を受けとけばいい、割礼こそ大事なのだ、というようなことになっていたんじゃないかと思う。
信仰
パウロはここで割礼のことよりも、信仰について語り始める。
アブラハムは神の約束を信じた。それが彼の信仰だったのだ。
18節4:18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。
そのころ100歳ですでに自分の体衰えており、ここは死んでいた、という言葉だそうだ。こどもを作る力はもう死んでいた、ということ。またサラもこどもを宿せない体だった、のに信じた。
どうして信じたのか、信じられたのか。
21節「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。」「確信していた」とは満たされていた、という意味だそうだ。神の約束で満たされていた。だから信じていた。本当かどうか、といって悩んでいるのではなく、神の約束を聞いてそれが頭の中にいっぱいになっていた、そしてわくわくしていた、と言うことだろう。
イワシの頭も信心からなんて言葉もあるように、信心が大事、信じる気持ち、信じる心が大事であるというようなことも聞く。
でも聖書の信仰とは、自分の力を振り絞って嘘でも信じなければ、と言うのとは違う。
とにかく信じるこころが大事なのだ、何を信じるかではなく、何を信じるのか、誰を信じるのか,それがとても大事になる。
どうしてアブラハムがその神の約束を信じたのかと言うと、それは神が死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させる神であるからだと思う。
神のこの約束を信じたことで、アブラハムは義と認められた、そして私たちも信じることで義と認められるとパウロは言う。それは24節以下に「わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」とある通りだ。
義とされるということがとても大事なことなのだ。神にどう見られているか、神との関係がどうなのかが大事。人間がいくら熱心でも、神にそっぽを向かれていてはどうしようもない。まして神でない者に向かっていくら呼びかけても何にもならない。
神に義とされるということは神との正しい関係を持つと言うことだ。そのためには主イエスを死者の中から復活させた方を信じることだ、と言う。
私たちの罪のためにイエスが死んでくださり、私たちが義とされるために復活させられたことを信じることだ。信じるとはそのことを受け入れることだ。
見えない
ヘブライ人への手紙11:1には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とある。
神は私たちに何を約束してくれているんだろうか。
18節「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」とある。希望できない時にさえも望みを持つ、それが私たちの信仰なのかもしれない。