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礼拝メッセージより
「無償で義とされる」 2010年10月17日
聖書:ローマの信徒への手紙 3章21-31節
ところが
「ところが今や」と、それまでの重苦しい雰囲気を振り払うような言い方になっている。その直前では、結局は正しい者はいないという何とも悲しい話をしていた。そして誰もが神の裁きを受けなければならない、どうしようもない人間の実体が語られていた。
結局人間にはどうしたって赦される道はない。罪の裁きから逃れる手段を人間は持ってはいない。神との正常な関係を取り戻す手段を持っていない、のだ。人間は義である、正しい神にとっては似つかわしくない者なのだ。見捨てられてしまっても仕方がない。あるいはそうした方がいいような者なのだ。
人間は神から律法を与えられた。それによって義とされる、神に従う正しい道を教えてもらった。ところが現実には律法によって、それを守れない人間、罪を持っている人間というものが却ってはっきりとした。
ユダヤ人は自分たちは律法を与えられた特別の民だと自慢していた。そして律法を守ることで義とされるのだから、他の民は義とされることはない、と言って見下げていたようだ。しかしユダヤ人は律法を守ることはできなかった。結局はほかの民と何ら変わらない罪人であったのだ。
何の望みもない、何の希望もない。神と罪人である人間は神との関係を絶たれて暗闇をさまようしかない。
人間にはもう絶望しかない。何とも暗い話。考えれば考えるほど暗くなるような話。そして実際もうどうすることも出来なくなっていた。
ところがここから話は変わる。「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて神の義が示されました。」
律法と預言者とは聖書のこと。私たちが手にしている聖書で言うと旧約聖書のことになるけれど、これは律法預言者諸書、と言う名前なのだそうだ。つまり旧約聖書によって証されていた、律法とは別の神の義が示された、と言うのだ。
贖い
それはイエス・キリストによる贖いの業を通して現されるのだという。
そしてイエス・キリストを信じる信仰によって信じる者に与えられるものであるというのだ。
絶望しかない、真っ暗闇でしかない人間の世界に光が射してきた、というのだ。
神の義は神から無償で与えられる義。それは神の恵みによるのだ、という。
ただイエス・キリストの贖いの業によって与えられる義であると言う。イエス・キリストの贖いを通して、私たちは義とされる。恵みにより無償で与えられるのだ。
「無償」ということは人間はお金を払っていない、ということ。それと引き替えにはなにも払っていないということ。ただもらうだけ。もらう理由もないのにもらうのだ。よく手伝いをしてお礼を貰うことがあるけれど、何もしていないのにお礼を貰うようなものだ。それに見合うものはなにもない。なのにもらう。だから無償なのだ。恵みなのだ。
「贖い」とはもともと奴隷を賠償金を払って買い戻すことだそうだ。罪の奴隷となっている人間を神が買い戻したようなものだ。
また、神はキリストを罪を償うための供え物とした、と書いてある。
償いと言えば、「目には目を、歯には歯を」と言うのが有名だ。目には目を持って償え、歯には歯を持って償え、ということ。これは同じことをして復讐しろという意味ではなく、同じもので償え、ということだ。律法にはそう書いてある。
イエス・キリストは命をかけて私たちの命を償った。命を救うためには命の償いが必要だったということなのだろう。
義を示す
何でそんなことをしなければいけなかったのかというと、神の義を示すためだった、というのだ。義を示すということは正しさを主張することのように聞こえる。人間だとそうだろう。俺は正しいんだ、という時、おまえは間違っているとなる。人間が自分の義を示す時、他の人の間違いを指摘して、その人を罰するということになる。
しかし神の義は、イエスを罰するのだ。罪人である人間を罰しないで罪のないイエスを罰したのだ。それが神の義なのだと言う。本来その罪は罪人であるものが罰を受けるはずであった。しかし神はイエス・キリストを罰した。イエス・キリストが罰を受けたことで、私たちが受けるはずの罰はもうなくなくなってしまった。もう償いは終わってしまった。義とされるようになったわけだ。
信仰によって
だから人の誇りは取り除かれてしまった、と言う。言うなれば神が勝手に私たちを救う道を備えて神がその通りにおこなってくださった。人間はなにもしていない。私たちがすることは、そうしてくれたことを受けるだけだ。ありがとうと言うだけだ。
だからパウロは,行いによって義とされるのではない、ということを強調する。ただ受けるだけなのだ。だから私たちの信仰心がどうだとかそんなことは問題ではない。神の義を受けるのに私たちは無償でいただいたのだ。
だから割礼のあるなしも関係ない。割礼のあるものも信仰の故に義とされ、割礼のないものも信仰により義とされる、という。人間の側がどうしたこうしたというのではない。
だからといって割礼のあるものをことさら責めるわけでもない。どちらも同じ、誇りなんてものはないようなものなのだ。
律法
では律法はもういらないのじゃないか、と思うけれどもパウロは最後に、律法を確立すると言っている。イエスも、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
律法って字も法律と似ていて同じような臭いがするけれど、どうなんだろう。
法律は違反すると罰せられるけれど、もともと違反者を見つけるためにあるんじゃなくて、違反しないようにすることで社会の秩序を維持しようとしているんじゃないかと思う。
律法も、守らない者を罰するため、こいつは罪人だと決め付けるためではなく、それを守ることで神との関係を持つためにあるんだろうと思う。神との正しい関係を持つために、神との関係を切らさないためにこういう風にしなさいと言われている教えなんだろうと思う。
つまり本来律法は神と人とをつなげるものだったのだと思う。それを人を裁くための道具にしてしまったところに問題があったんだろう。
神はイエスの贖いの業を通して、人間との関係を修復してくれた。神と人との関係を持つこと、それは実は律法の目指すところであり、この信仰は律法を確立することになるんだろうと思う。
そうやって私たちは神との正しい関係を持つように招かれている。それは言わば神との愛の関係だろう。神は私たちを、お前のここは間違っている、これは駄目だ、というような裁く目で見ているのではない。お前が大事だ、お前が大切だという愛の目で見ている。
神は何としてもそんな正しい関係を持ちたいと願った、そのためのイエスの十字架だったのだろう。
私たちはただそれを受けるだけ、受け取るだけでいい。神はそれを受け取って欲しいと心から願っているようだ。本当にありがたいことだ。