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礼拝メッセージより
「神の報い」 2010年10月10日
聖書:ローマの信徒への手紙 2章1-11節
領土問題
領土問題が起こっている。領土問題は存在しないと言っている人もいるみたいだけど、昔から世界各地で領土問題はあるみたいだ。
最近は中国との間でもめ事があって、日本では中国はおかしな国だという風な報道をして、中国もまた日本が勝手なことをしてると報道しているみたいだ。
ある韓国の人が、中国も日本もお互いが相手をおかしな国だと見ている、お互いが相手を下に見ている、そこに根本的な問題があるんじゃないかと言っていた。
ネットでは中国や韓国や北朝鮮の人がちょっと気に入らないことを言ったり、したりするとすぐに誹謗中傷する書き込みがある。おかしな国だ、これだからあの国は、というような見方をする癖というか習性ができているような気がする。それを煽るような報道も多いけれど、確かにその辺に根本的な問題があるような気がする。
相手を見下げたり裁いたりすること、そこには平和は来ないようだ。それは国同士だけの問題ではなく、教会の中での問題でもあるようだ。
緊張
聖書教育によると、最初の教会エルサレム教会には12弟子たちを中心とするパレスチナ出身のヘブライ語を話すユダヤ人と、ユダヤの地から離散してギリシャ社会に広がって定住していたユダヤ人(ディアスポラ)の出身で、その外国生活から戻ってきていたギリシャ語を話すユダヤ人とが共存していたそうだ。この両者の間には、次第にユダヤ教の律法と割礼を守ることへの理解の違いから緊張が深まってきた。
ステファノの殺害をきっかけにエルサレム教会への大迫害が起きた。すると、エルサレム教会の中のヘブライ語を話すユダヤ人たちは、律法や習慣に自由な立場を取っていたギリシャ語を話すユダヤ人たちを切り捨てるようにして自分たちの身の安全を図った。
使徒言行録6章に
6:1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
6:2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。
6:3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、"霊"と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。
6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
6:5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、
6:6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
ということが書かれている。これも実はただ日々の分配のことだけではなくて、ギリシア語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人たちとの分裂が起こって、ギリシア語を話すユダヤ人たちの代表としてステファノたちが選ばれたということかもしれない。
そういうことからギリシャ語を話すユダヤ人たちは各地に逃れ、ローマまで逃げた人もいた。そしてそれ以前に離散して定住していたユダヤ人たちと交わりをもちながら教会を建てた人たちもいたようだ。そして教会の中にはユダヤ人だけでなく、次第に異邦人も加わって人数が多くなっていく。それに対してエルサレム教会を中心とするヘブライ語を話すユダヤ人たちは危機感をいだき、異邦人に対して律法や割礼を厳しく守らせようとした。そこでユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間に出来た溝は深まっていったようだ。
さらに、紀元49年に、皇帝クラウディウスが全ユダヤ人をローマから退去させる」というユダヤ人追放令が出た。ということが使徒言行録18章に書かれている。知らなかったけど。
18:1 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。
18:2 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。
ローマ教会は数年間は異邦人だけになってしまい、その間にユダヤ人キリスト者との意識の違いは広がっていったのだろう。54年に皇帝ネロによって追放令が廃止されてユダヤ人キリスト者が教会に戻ってくると緊張は深まったと考えられる。
ローマの教会にはそんな緊張関係があったようで、それに対してパウロはこの手紙を書いているということだ。
違い
ユダヤ人たちはどうも自分たちは他の者とは違うと考えていたらしい。異邦人とは違うと。自分たちは神に選ばれている、と思っていた。つまり他の者は選ばれていない人間。
私たちは罪を赦された人間、他の者は赦されていない人間。教会の外の人間は赦されていない人間、私たちは違うのだ、と思う。そんな私たちが他の人に抱く気持ちと似ている。
1章の後半で罪の話をしている。そこでは、神を神としないこと、それこそが罪であるというようなことが言われているようだ。続いて2章で「だから」人を裁く者は弁解の余地はない、という。
ここはユダヤ人たちに対して書かれていると言われる。ユダヤ人の、自分たちは異邦人とは違う特別なのだという考えに対して、パウロはそれは人を裁くことだといっている。それは罪だ、と言っている。
自分たちは他の人たちとは違って罪人ではない、あるいは罪が軽いと思う。そのことこそが罪なんだ、と言っているようだ。
ユダヤ人だろうが異邦人だろうが、ここではギリシャ人と言っているが、変わりはしないのだ。
ユダヤ人は自分たちだけに神が律法を与えてくれたので、律法を守ることが出来るのは自分たちだけだ、だから神によしとされるのは自分たちだけだ、だから自分たち以外の民は自分たちとは違って罪人だ、と思っていたらしい。
しかしパウロは、変わりはしないのだ、という。同じなんだ、ユダヤ人だけが特別ではない、他の民より罪が軽いなんてことはない、自分たちだけ罪がなくなっているなんてことはない、そんな気持ちで自分たちの罪は赦されている、しかしあいつらは依然罪人だというような目で人を見る、そのことこそが罪なんだ、そのことに対して神は怒りを表されるという。神の怒りを自分のために蓄えている、という。
逆に異邦人たちはユダヤ人キリスト者たちのことを、キリストによって自由を与えられているのにいつまでの律法に縛られている人たち、キリストの福音を分かっていない人たちと裁いていたんじゃないかと思う。
でもパウロは結局同じなんだという、どのように同じかというと、罪人として同じだ、という。同じ罪人だ、という。1章で人間がいかに罪人であるかということを語っている。それはユダヤ人も異邦人も同じなんだ。という。罪深い人間なんだ。それなのに、あいつらの方がもっと罪人だ、とどうしていえるのか、どうして人を裁くのか、そんなことこそ罪だという。
裁き
クリスチャンになるといい人間になったかのように錯覚することがある。クリスチャンはよい側の人間になったのか。立派な人間になった、教会に来ない人間とはちょっと違うのか。
だから教会に来ない人たち駄目な人間だと思ったりする。あの人たちよりも自分は少しはいい人間なんだと思うような所がある。果たしてそうなのか。決してそうではない。クリスチャンだってやっぱり罪人であるわけで同じなのだ。
憐れみ
しかしパウロは続けて神の憐れみがあなたを悔い改めに導くという。人の努力や信仰心が悔い改めに導くではなく、神の憐れみが悔い改めに導くという。裁かれるべき私たちに対して神はその豊かな慈愛と寛容と忍耐をもって関わってくれていると言うのだ。
なのにそれをないがしろにするのかという。人を裁くということで神の憐れみをないがしろにしてしまっている、というのだ。
罪人である自分たちに神はそれでも憐れみを持って慈愛と寛容と忍耐とをもってなお関わってくれている、それなのに、そのことを当たり前のように思うこと、それを軽んじることは神の怒りを自分のために蓄えていることなんだという。
神が憐れみをもって罪を赦してくれたに過ぎないのに、俺たちに罪はない、偉くなったんだ、立派になったんだ、おまえらとは違うんだ、といっているようなものだ。それでは神になりかわって人を裁いているようなことで、それこそが罪だと言うのだ。
報い
神はおのおのの行いに従って報いるという。7-8節には、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には永遠の命を、そして反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りを示されると書かれている。
その後9-10節では、きっとそれを言い換えて繰り返しているんじゃないかと思うけれど、すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが降り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます、と書かれている。
結局、人を裁く者には苦しみと悩みが降り、裁かない者には栄光と誉れと平和が与えられる、それが神からの報いということじゃないかと思う。
罪人として
私たちは罪をもっているものとして生きなければならないのだと思う。それを忘れてはいけないのだと思う。私たちは互いに罪人として、けれども神からの恵みを受けて赦されている罪人として生きていく。クリスチャンだから救われて選ばれて、他の人とはちょっと違う人間になったのではない。偉くなったのではない。ちょっと高い位置に立つようになったのではない。
依然として罪人である。罪人として生きていくということは、自分の間違いや足りなさを抱えて生きていくということだと思う。それはずっと痛みを抱えて生きていくようなことだろうと思う。でもその痛みがあるからこそ優しくなれるのだと思う。そこには平和が生まれるだろう。それが神からの報いなんだろうと思う。
平和に生きるのか、それとも苦しみに生きるのか、そう問われているんじゃないかと思う。