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礼拝メッセージより
「とりなし」 2010年9月19日
聖書:詩編 121編1-8節
巡礼
1節には都に上る歌、とある。この詩編は巡礼の旅に出る際に使われた詩編ではないかとも言われている、と聖書教育に書いてあった。そうすると1,2節が巡礼に出る人の言葉で、3節以下が見送りの人の言葉みたいで、それはとりなしの祈りと考えることができると書いてあった。
今から巡礼の旅に出ようとする時に山を見上げて、困難な道中の助けを願っているという状況なんだろうか。それとも、巡礼の地であるエルサレムにやってきて、神を感じ、あらためて神の助け感謝しているという状況なんだろうか。
どっちかというとエルサレムにやってきて、エルサレムの山々を見ているような気がする。
神の守りを感じたこの人が、他に人たちに対しても、神の守りを願っている、祈っているということのような気がしている。
山々
でも神の助けは自分の目の前に持ってこれるようなものではない。打ち出の小槌のように自分の持ち物として持っておくこともできないものだ。どこにあるのか、どこから来るのかと探し求めるようなものでもあるのだろう。だからこそ遠くの山々を見上げて本当にあるのかと思うような、私たちにとってはやっぱりおぼろなことでもある。
しかし目の前に持ってくることも、手に持つこともできないけれど、やっぱり神の助けはあるのだ、天地を造った主のもとからやってくるのだ、と言っている。
そうすると山ってのは、周りを見回した時に一番遠くに見えるものなんじゃないかと思う。見えるところには神の助けという実体があるわけではない。でも見えないからないわけではない。見えないけれど神の助けはあるのだ、とこの詩人は告白している。そしてその主が他の人たちを見守ってくれるようにと祈っている。
4節以下その主の説明みたいになっている。まどろむことなく眠ることもない。あなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方、なのだという。見えないけれどもすぐそばにいるということだ。眠ることもなく昼も夜もそばにいて守ってくれる、そんな方だという。そしてその神があなたを見守ってくれるように祈っている。
ことば
こういう言葉を聞いた人はそうだなと素直に信じられたのだろうか。神が助けてくれると安心できたのだろうか。
最近そんなことをよく思っている。不信仰なだけなのかもしれないけれど、神が守ってくれるから、と聞くだけで大丈夫と安心できるんだろうかなんて考える。
最近なんだかしんどくて、神の助けとか神の守りとか本当にあるのか、どこにあるのかと思っている。
この詩編のような言葉も、言ってることはわかるけれど、きっとそうなんだろうなとは思うけれども、なんとなく実感がわかないというか、これを聞いてそうだ、そうだったんだと元気になれない。それこそ、7-8節にあるように、「主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」と祈って欲しいという気持ちだ。
そういう祈りをとりなしというそうだけれど、新約聖書にはこんな言葉があった。
ローマの信徒への手紙
8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
御霊が、イエスが、つまり神自身がとりなしてくださっているという。これを読むとちょっと元気が出てきたような気がする。
コリントの信徒への手紙二
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
見えない神の助けに目を注いでいたいと思う。神が私たちのためにとりなしてくれているという見えない事実に目を注いでいたいと思う。