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礼拝メッセージより
「ハレルヤ」 2010年9月26日
聖書:詩編 146編1-10節
ハレルヤ詩編
詩編146-150編は、「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わるので「ハレルヤ詩編」と言うそうだ。「ハレルヤ」とは、「主を讃美する・主を誉め称える」と言った意味だそうだ。
ハレルヤ?
3節には、君侯に依り頼んではならない、人間には救い力はない、という。君侯って大名みたいなものかな。今で言えば政治家みたいなものだろうか。世の権力者に頼ってはいけないということのようだ。その後に書いてあるように、人間はやがて死んで土に帰るわけだから、そんなものに頼ってはいけないということなんだろう。
そうすると誰にも頼らないか、あるいは神に頼るか、どっちかしかないわけだ。誰にも頼らないなんてことはできそうもなく、やっぱり神に頼るしかない。結局頼るのは神しかないということになりそうだ。
そしてその神は天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた神であるという。なんで海のことしか出てこないんだろう。まあそれは置いておいて、神は造り主であるわけだ。
その神はとこしえにまことを守られる主であるとも言われている。その神は、虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンを与え、囚われ人を解き放ち、見えない人の目を開き、うずくまっている人を起こし、従う人を愛し、寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる、そんな神である。ついでに逆らう者の道をくつがえす、そんな神なのだと言う。
そんな神だから、ハレルヤ、誉め称えよ、讃美せよ、と言うのだろう。
ハレルヤ、と両手を挙げて挨拶するような教会もある。手紙の最初にハレルヤと書く人もいる。
神が自分の祈りを聞いてくれて、自分の願いを叶えてくれるときはハレルヤと言いたくもなる。物事が順調に進んでいるときなら言えそうな気もする。
でも現実には苦しいことや辛いことがいっぱいで、なかなか自分の思い通りにならない。祈っても祈っても聞かれない、と思うことが多い。
祈りが足らないのか、信心が足りないのか、なんか悪いコトしたんだろうか、何か間違っているんだろうか、なんてことを思う。そうやって自分を責めたり、あるいは周りの状況を恨んだり、或いは誰かを責めてみたり、ぐちぐちぶつぶつ、やがてなんにもする元気もなくなって、というようなことになりがちだ。
そんな時にハレルヤなんて言えるのか、ハレルヤと言わないといけないのか。ハレルヤなんて言ったり書いたりする人は本当に心からそう思って言ってるんだろうか、ただ習慣で言ったり書いたりしているんじゃないのかなんて思ったりもする。苦しいことがいっぱいあるのに単純に言えないだろう、って思う。
ハレルヤ
でも逆にハレルヤって言えたらすごいなとも思う。苦しい時にも光が見えないような時にも、ハレルヤって言えたらすごいなと思う。
苦しいことがあるとついつい苦しいことばかりに目が奪われる。苦しい現実を見つめるばかりで、だんだんと気分も落ち込み、暗くなってくる。そして余計に苦しくなってくる。
ハレルヤって言うのは、苦しい現実から一旦目を離し神を見るということかもしれない。現実は苦しいけれど、その現実に縛られてはいけない、苦しい現実にのみこまれてはいけない、そこで神を見るんだ、という言葉なんだろうと思う。
だからハレルヤってただかっこつけた言葉じゃなくて、ただの軽い挨拶じゃなくて、そこで神を見るんだ、神のすごさを思い出すんだ、神を信じるんだ、というとても重い言葉のような気がしてきた。
この詩編も、初めはただ単純に神を誉めなさいよ、讃美しなさいよ、と言っているのかと思っていたけれど、実はこの作者もとても苦しい思いを持っている中でハレルヤと言っているのかもしれないと思うようになってきた。
わたしの魂よ、と自分に向かって主を讃美せよ、と言っているのは、自分の魂がとても主を讃美できないような状態にあるということなんじゃないかと思う。もうどうしていいかわからない、苦しくて苦しくてどうにもならない、そんな自分自身に向かって、そんな自分を鼓舞するかのような思いで、ハレルヤと叫んでいるのかもしれないと思う。
ハレルヤって両手を挙げて高らかに言うだけじゃなくて、案外涙を流しながら、心から絞り出す言葉でもあるような気がする。